平成24年1月10日(火)から、職場復帰しました!
昨年(H23年)10月中旬から病休でしたので約3か月ぶりに出社すると、入退室のセキュリティやら、ネットワークへのアクセスやら、あらゆるもののセキュリティがロックされていて、自分自身は開店休業状態でした。
いままでブログは週に2回更新していましたが、しばらくは週一回程度で無理しないように続けていき、仕事に慣れてきたら、週2回に戻していきたいと思います。
(雪椿)
さて、正月は新潟の実家でシッポリと過ごし、珍しく氷点下2度まで気温が下がりましたが、雪中の椿の赤がとても眩しかった。
いつか必ず。きっと春は来る。
(明治神宮)
帰京して、1月8日(日)に明治神宮に初詣に出かけました。3連休ということもあってか大混雑。
今年は明治天皇の崩御から100年目。
ということは乃木が切腹した年からも、ちょうど100年目にあたるのですね。
(切腹当日の乃木稀典)
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第1次総攻撃 第2次総攻撃 第3次総攻撃 28サンチ榴弾砲 空前の消耗戦
旅順要塞降伏
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【旅順攻囲戦における第三軍の損害】
年末年始にかけて、司馬遼太郎氏の「殉死」と乃木神社で販売していた岡田幹彦氏の「乃木希典(副題:高貴なる明治)」を読みました。
司馬氏は皆さんがご承知の通り、乃木がよほど嫌いのようで「無能」と、こき下ろしています。
かたや岡田氏は、如何に乃木の精神性が優れているかを説いている。
司馬氏は203高地を陥落させたことで旅順要塞も陥落したように、さらりと流していますが、実際は旅順陥落までには、なお1ヶ月程度死闘が続いています。
また、乃木が四国香川の善通寺第11師団に赴任中のとき、大晦日にもかかわらず奥さんの静子が急用で、宿所の金倉寺で訪ねてきたが乃木は追い返し、翌日の夕方(正月元旦!)にようやく奥さんに面会を許したという。
金倉寺には、乃木将軍妻返しの松なる碑がある・・・司馬氏でなくとも、こんな乃木の行動にはクエッションマークが3つくらい立ちます。
年始で会った、大正15年生まれで今年(平成24年)は数え年で米寿を迎える母方の叔父と、昭和2年生まれの義父に乃木のことを聞いてみたところ、二人とも70年も前に小学校で歌わされたという「水師営の会見」なる小学校唱歌を諳んじることができる。
<水師営の会見>
1.旅順開城約(やく)成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいづこ水師営
2.庭に一本棗(ひともとなつめ)の木 弾丸あとも著しく 崩れ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相見る二将軍
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9.「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左 筒音(つつおと)絶えし砲台に ひらめき立てり日の御旗(みはた)
と、まあ長いこと永いこと9番まで続くこの歌は、昭和20年の第二次世界大戦の敗戦時まで生徒は歌われていたという。
ちなみに、戦争を体験したご年配者は皆、第二次世界大戦を「大東亜戦争」という。
そんなことだから乃木に対して、さぞおもしろい話を聞けるかと思いきや、二人とも「兵隊を殺しすぎた」と言い、あまり良い印象を持っている風ではなかった。
旅順攻城戦は203高地イコール旅順要塞攻城戦と思っているようで、当時の日本陸軍に、機関銃(砲)が配備されていたことや、第3軍の要塞攻撃の間に海軍重砲隊が、旅順港に砲撃を加えていることは全く知識にないようだ。
大東亜戦争を切り抜けてきた世代は、強制的な精神の高揚、徴兵され戦地での絶望的な戦闘、むざむざ若い命を散らさなければならなかった特攻、日本国内の都市を執拗に狙ったB29の空襲による大量破壊・殺りくといった、300万人以上もの犠牲を強いられた現実と交錯して、「兵隊を殺しすぎた」乃木にもあまり良い印象を持っていないのだろう。
このあたりは、全く戦争と関わりなく育ってきた自分のような戦後生まれの世代などはとは、相容れない感覚があるのかもしれない。
結局、乃木が名将と思う人が50%、愚将と思う人が50%。それぞれいるのだと思う。
さて、乃木大将が兵隊を殺しすぎた、ということなので日露戦争における日本軍の旅順攻城戦とそれ以外の主な戦いとの損害はどうだったのか比較してみると。。。。
旅順攻囲戦
旅順攻囲戦(第三軍) 1904年 8月19日~1905年 1月 1日
総戦力:約140,000 , 死傷者 約70,000
その他の主な戦闘
1.鴨緑江会戦(第一軍) 1904年 4月30日~ 5月 1日
戦力:約 42,000 , 死傷者 約 1,000
2.南山の戦(第二軍) 1904年 5月25日~ 5月26日
戦力:約 38,500 , 死傷者 約 4,300
3.遼陽会戦(第一・二・四軍) 1904年 8月24日~ 9月 4日
戦力:約125,000 , 死傷者 約24,000
4.沙河会戦(第一・二・四軍) 1904年10月 9日~10月20日
戦力:約120,000 , 死傷者 約20,000
5.黒溝台会戦(満州軍) 1905年1月25日~ 1月29日
戦力:約 54,000 , 死傷者 約 9,000
6.奉天会戦(一~四軍) 1905年2月21日~ 3月10日
戦力:約240,000 , 死傷者 約65,000
◆その他の主な戦闘の死傷者合計 約123,300
あまりにも、旅順攻城戦の損害が大きいことがわかる。
しかし、この死傷者数を以って乃木が無能だったかというと、正攻法での永久要塞への攻撃で、実は「わずか5か月」という驚くべき短期間で陥落させたのも乃木大将率いる第3軍なのです。
次は、いよいよ旅順攻城戦の内容に迫るとしますが、脱線したらお許しを。
前の記事 明治38年(1905)1月5日 旅順要塞降伏
南山の戦いから始まった空前の消耗戦につづく~
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赤穂事件 乃木と赤穂事件
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【日本酒を飲んで復興支援】
今回は、酒の肴に笹かまぼこだす。
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