(乃木大将)
招福
昨年は、東日本大震災に水害、容易ならざる原発事故など、誠に大変な年でした。
自分こと月乃和熊も、3度ほど石巻に行ってきましたが、未だ行方不明の方も多く正月も返上で肉親を探し続けている方も多数おられると新聞で読みました。
震災前のように、節電だ節水だと意識することなく、愛する家族の笑顔がそばにあり、普通に暮らしていられたことが、これほどありがたいものであったかと感じております。
どうか本年は、何事もない普通の年でありますように。
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第1次総攻撃 第2次総攻撃 第3次総攻撃 28サンチ榴弾砲 第3軍の損害
空前の消耗戦
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明治38年(1905)1月5日
この日は、乃木将軍とステッセル中将が水師営で会見した日です
3年間は守ってみせるとロシア軍コンドラチェンコ少将にいわせしめた、難攻不落の旅順永久要塞は、明治38年(1905)1月1日乃木大将率いる第3軍が望台を占領したことで、旅順要塞司令官 ステッセル中将はこれ以上の抗戦を断念。
明治37年(1904)8月19日の第1回総攻撃より実に5ヶ月間の死闘が終結し、1月5日水師営にて乃木大将とステッセルの会見が行われ、ここに近代屈指といわれたロシア軍の旅順永久要塞は完全降伏した。
前哨戦
明治37年6月6日 張家屯に上陸した第3軍は旅順要塞攻撃の前に、大連から旅順をを結ぶ遼東半島の山岳地帯にロシア軍が築城した約25kmにもおよぶ、旅順要塞の防衛陣地10拠点の進攻戦を6月26日より開始し、7月30日までに旅順港から約7kmに位置する大孤山、小孤山を攻略し、旅順要塞の攻囲線を完成させた。
第3軍が擁する兵力 約51,000、火砲380、機関銃 48
(第1師団、第9師団、第11師団)
旅順要塞で待ち受けるロシア軍の兵力 約44,000、火砲600門、機関銃43。
旅順港を取り囲む山々に堅固な多数の堡塁を築き、第3軍を待ち受ける。
機関銃は第3軍のほうが多い
秋山支隊は騎兵にして機関銃、野砲を装備していたことは有名でしたが、第3軍にも機関銃があったのか?
日本軍はガス圧を利用するホッチキス機関銃を採用していた。故障も少なく非常に優れた機関銃ではあったが、給弾に保弾板を用いたため連続射撃は24発しかなく、ロシア軍が装備していた、布ベルトで200発程度給弾できるマキシム機関銃からみると、極端に射撃時間が短い。
当時の機関銃は、三脚まで含めると約50kgもあり、また三脚に設置した銃の位置が高いため射手は、狙撃・砲弾の破片などにも晒されやすい。
攻撃側からみると機動力に欠け、守備側からは絶大な威力を発揮したようです。
攻撃側の兵力不足
東鶏冠山などの堡塁は、高地を稜線に沿って築かれ周囲約500mもある。
攻め手は地雷原を突破すると、電流が流れる幾重もの鉄条網をに阻まれ銃撃される。
さらに鉄条網を突破すると幅8m、深さ6mの外濠があり、濠に降りると隠し部屋からも銃撃される運命にある。
そもそも攻城戦では、攻め手は守り手の3倍以上の兵力が必要とされるので、第3軍は13万以上の兵力を用意していなければならなかった。
しかし大本営、満州軍総司令は、ロシア軍の兵力を15000、火砲200門程度と過小評価しているばかりか、深刻な弾薬の供給不足にも悩ませられる。
世界的に例のないほどの難攻不落の近代要塞に変貌した旅順要塞に挑む第3軍の動向を、ヨーロッパ諸国は興味津々で注目していた。
日本軍は奉天占領後の有利な条件での講和交渉に全精力を注ぎ込んでいたため、旅順の情報収集が疎かになっていたのだろうか???
観測所は203高地だけではない??
なんとなんと、旅順港を砲撃するための観測所は、203高地でけではありませんでした。
203高地占領に先立つ5か月も前、第1回総攻撃の20日ほど前、第3軍 第11師団が7月29日に大孤山を占領すると、海軍はただちに大孤山に観測所を設け旅順港へ砲撃を開始した。
海軍陸戦重砲隊は、旅順港から約7km地点の東北正面より15センチ砲、12センチ砲、12ポンド砲等(最大時43門)で、旅順港を砲撃し、8月9日戦艦レトヴィザンは直撃を受けて大破、戦艦ツェサレーヴィチは艦橋に損傷を受けた。
砲撃により港湾施設にも被害がおよび、ドックもないため修理もままならない旅順艦隊は、翌8月10日ウラジオストックヘ脱出を試みたが、手ぐすねを引いて待ち受けていた連合艦隊との黄海海戦でさんざんに叩かれ、戦艦、巡洋艦など6隻程度がドイツ領、フランス領、上海などに逃げ込み武装を解除。
艦隊司令官ウィトゲフト少将は戦死したものの沈没することなく、多数の艦船が旅順港に逃げ帰ったが修理不能であったため、これ以後の作戦遂行は不可能となった。
28サンチ砲での砲撃は何時から始まった?
203高地の占領、その後の28サンチ砲の投入で、旅順艦隊が壊滅したように思われているが、海軍重砲隊の砲撃は、8月10日以降も継続して続けられ、旅順港に向けた28サンチ砲の砲撃は、大孤山の観測所からの照準で10月1日から開始されている。
なんとなんと、なんとなんと、203高地占領の12月5日ごろには、ほとんどの艦船は擱座し艦載砲や水兵は要塞防衛の兵力として組み込まれ、艦隊はすでに無力化し放棄されていた。。。。
(乃木神社)
◇◆予告◆◇
調べると、今回ご報告したような、「ええ~そうだったの?」という不思議な発見が多数あります。
旅順艦隊はすでに壊滅しているにも関わらず、旅順攻囲線は実施しなければならなかったのか?
203高地は、どうしても攻撃しなければならなかったのか?
第3軍の攻撃方法は?乃木将軍は本当に愚将なのか?
など、用意でき次第ご報告しますです。
旅順攻囲戦における第三軍の損害につづく~
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赤穂事件 乃木と赤穂事件
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