よく無表情な顔のことを「能面みたいな顔」といったりします。
なので「能面ヴィオラ」という表現は、生気のない無表情なヴィオラ(ヴィオラの演奏)という意味に取られても仕方ないですね。
ところで実際の能面は、さまざまな表情が凝縮されていて、能楽師が面をつけて演ずると、微妙な顔の動かし方でさまざまな表情(人間の感情)を表現できると言われています。
そこで、この能面の特徴・魅力をヴィオラにも(無理やり)あてはめてみました。つまり、「能面ヴィオラ」の意味するところは次のようなものです。
「ヴィオラ(の音色)には、(能面のように)多様な性格の音色が凝縮・内包されている。バイオリンやチェロのような派手さ、華麗さは若干欠けるものの、多様で味わい深い表現ができる。」
まあ、そんなヴィオラの音を出したいな、という願望が込められているわけです。
さて、ここでちょっと脱線しますが
私は、(女性の)厚化粧は苦手です。もちろん香水も苦手(特にデパートの1階によくある香水売り場、あのシャネルの匂いなどは苦痛でしかありません。)また、写真・動画の色彩も派手なのは拒否(最近の「大河ドラマ」の色調にはどうしても違和感を感じてしまいます。)
要は、「これでどうだ」「これなら感動するだろう」みたいな押し付けがましいのは好みではないのです。
この感覚、私の嗜好は、一貫して他のさまざまな分野にも共通しているように思います。
簡単に言ってしまえば、(刺激が強くなくても)微妙な変化を楽しむタイプというのでしょうか。
たとえば、多数のきれいな直線が平行に並んでいる中で、どれかがわずかに傾いていたり歪んでいたりすると、わずかな違いでもその部分が強調されて認識されます。
音楽のフレーズやニュアンスも、一つひとつの音のニュアンスが揃っていることが基本にあったうえで、ちょっとした変化・味付けがあるとそれがよく伝わってきます。基礎ができていないと、つまり基本となる音のニュアンスがばらついていると、そのばらつきの範囲を超えるような過剰な変化を付けないと、表情が表に出てきません。
最近の若い人の歌(ポップス)は、元気は良いのですが、はじめから終わりまでずっと「フォルテ」、サビの連続という感じです。高らかに歌い上げているのだとは思いますが、私としてはそんなにたくさん、これでもか、と持ってこられると消化不良、ちょっと迷惑に感じたりします。
押し付けがましいと感じるのは、私がどう思っていようが特定の感情や表現を持ってこられるからなのだと思います。(そのほうが明解で解釈に悩む必要もないのでしょうけど。まあ、それなら何回も味わうものではありませんね。)
そのような過剰な表現ではなく、こちらから何か見つけに行く、それが、時と場合によって見つかるものが変化する、というところに魅力を感じるのです。(人間の魅力というのも似たようなものかと思います。)
別な表現をすれば、その時の自分との関係で見えてくるものが変わってくる、ということになるでしょうか。
最近は(特に日本では?)、タイパなどと言って、何事も時間をかけずに済ますことが良いという風潮が強くなっています。(少子化・人口減少・人手不足が加速しているので仕方ないという側面はありますが)
短時間でわかる/わかったような気にさせてくれるものを求める。たとえば、「これだけやれば~」「~のための、たった一つの方法」などのコピーメッセージの氾濫。アートやパフォーマンスなどもその影響を受けているようにも思います。
いろいろ脱線しましたが、
長い間趣味はヴィオラひと筋だった私が、能面・面打ちに手を出したというのは、やはり両者に共通したものがあるからなのでしょう。
以上、まとまりありませんが「能面ヴィオラ」を巡って考えたことを書いてみました。
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