昔、昭和天皇が焼津を訪れた際に建立された『天皇のお立ち台』。
そのお立ち台が取り壊された時に、記念として作成されたモニュメントの上に、国旗掲揚ポールが設置され、その竣工式が執り行われた。
<玉串を収める焼津市長>
竣工式には、地元の有志の集まりである『いわし会』の方々を中心に、焼津市長、国旗をプレゼントしてくれた焼津神社の宮司、地元自治会の方々など、多士済々の人々が出席した。
<神事を司る宮司と、いわし会の方々>
神事が終了し、来賓によるご挨拶が終了した後、いよいよ国旗の掲揚式。
低気圧の影響からか、物凄く強い海風の中、ラジカセから流れる君が代をバックに、日の丸が高々と掲げられた。
実は、20年ほど前から、国旗を掲揚するときには、スーツのボタンを留め、背筋をピンと伸ばすようになった。
そして、その時の気持ちは、本当に清々しい。
そのように、日の丸に対して敬意を抱くようになったきっかけは、海外での経験がやはり大きいと思う。
ニューヨークでは、毎日のように星条旗が掲げられ、それとともに、ニューヨークに訪れるゲストの国の国旗が、星条旗の横に翻っていた。
これは、自分の国に対する愛国心を示すと共に、相手の国に対する敬意を表明する手段としては、最上のものであると自分は考える。
その後、国旗に対する様々な思いを抱きながら大西洋を渡ったロンドンで、パスポートとトラベラーズチェックが盗まれるという目に遭ってしまった。
異国でパスポートを失ったときの心細さは、実際に経験した人間でなければ判らないほどの辛さがある。
さらにその時は運の悪いことに、パスポートの再発行に訪れた下日本領事館が移転したばかりで、ガイドブックを頼りにたどり着いた場所には、英語で書かれた貼り紙のみ。
当時はデジカメなどといった、洒落たものは存在しなかったので、貼り紙の内容をメモに書き写し、うだるような暑さの中を歩くこと1時間あまり。
新しい領事館に掲げられた日の丸が遠くに見えたときには、
・日本人が異国の地で頑張っている。
・日本人である限り、日本国は、どこの国にいても守ってくれるんだ!
・これで帰れる・・・
等の気持ちが交錯し、涙が溢れてきて止まらなかった。
その様な体験をしたせいか、学校で君が代を歌わせないとか、国旗掲揚を行わないといったニュースを耳にする度に、心から憤りを覚えるようになった。
自分の国を象徴するものに敬意を払えない国民を、教職にある者が育てようとしているといった現実には、恐怖感すら感じる。
いつから、日本は、そのような危険思想を持つ人間を許容するようになってしまったのか?
もっとも、そのような危険思想をもつ方々も、異国の地に放り出されてパスポートを取り上げられれば、180°考えが変わると思うが・・・
そのように色々な思いが交錯した、国旗の掲揚式だった。
これからは、我が家でも国民の祝日には日の丸を揚げようかな・・・
そのお立ち台が取り壊された時に、記念として作成されたモニュメントの上に、国旗掲揚ポールが設置され、その竣工式が執り行われた。
<玉串を収める焼津市長>
竣工式には、地元の有志の集まりである『いわし会』の方々を中心に、焼津市長、国旗をプレゼントしてくれた焼津神社の宮司、地元自治会の方々など、多士済々の人々が出席した。
<神事を司る宮司と、いわし会の方々>
神事が終了し、来賓によるご挨拶が終了した後、いよいよ国旗の掲揚式。
低気圧の影響からか、物凄く強い海風の中、ラジカセから流れる君が代をバックに、日の丸が高々と掲げられた。
実は、20年ほど前から、国旗を掲揚するときには、スーツのボタンを留め、背筋をピンと伸ばすようになった。
そして、その時の気持ちは、本当に清々しい。
そのように、日の丸に対して敬意を抱くようになったきっかけは、海外での経験がやはり大きいと思う。
ニューヨークでは、毎日のように星条旗が掲げられ、それとともに、ニューヨークに訪れるゲストの国の国旗が、星条旗の横に翻っていた。
これは、自分の国に対する愛国心を示すと共に、相手の国に対する敬意を表明する手段としては、最上のものであると自分は考える。
その後、国旗に対する様々な思いを抱きながら大西洋を渡ったロンドンで、パスポートとトラベラーズチェックが盗まれるという目に遭ってしまった。
異国でパスポートを失ったときの心細さは、実際に経験した人間でなければ判らないほどの辛さがある。
さらにその時は運の悪いことに、パスポートの再発行に訪れた下日本領事館が移転したばかりで、ガイドブックを頼りにたどり着いた場所には、英語で書かれた貼り紙のみ。
当時はデジカメなどといった、洒落たものは存在しなかったので、貼り紙の内容をメモに書き写し、うだるような暑さの中を歩くこと1時間あまり。
新しい領事館に掲げられた日の丸が遠くに見えたときには、
・日本人が異国の地で頑張っている。
・日本人である限り、日本国は、どこの国にいても守ってくれるんだ!
・これで帰れる・・・
等の気持ちが交錯し、涙が溢れてきて止まらなかった。
その様な体験をしたせいか、学校で君が代を歌わせないとか、国旗掲揚を行わないといったニュースを耳にする度に、心から憤りを覚えるようになった。
自分の国を象徴するものに敬意を払えない国民を、教職にある者が育てようとしているといった現実には、恐怖感すら感じる。
いつから、日本は、そのような危険思想を持つ人間を許容するようになってしまったのか?
もっとも、そのような危険思想をもつ方々も、異国の地に放り出されてパスポートを取り上げられれば、180°考えが変わると思うが・・・
そのように色々な思いが交錯した、国旗の掲揚式だった。
これからは、我が家でも国民の祝日には日の丸を揚げようかな・・・
耳にする度に、心から憤りを覚えるようになった。
自分の国を象徴するものに敬意を払えない国民を、教職にある者が育てようとしている
といった現実には、恐怖感すら感じる。
いつから、日本は、そのような危険思想を持つ人間を許容するようになってしまったのか?
君が代の歌詞に対してそうは考えない者に対して、あなたが心から憤りを覚えるのは勝手だ。
しかし、この君が代の歌詞を国歌であることに疑問をもつ存在に対して、自分の国を象徴するものに対して敬意を払わない国民だと言い切っていいのかは疑問を感じる。
私は、国旗は別に日の丸でかまわないが、君が代は国歌として代えるべきだと思う。加えて私は、そういう考えた方の人を含むあたなの意見と違う人達を、一括りに危険思想を持つもつ人間だとはとても思えない。この議論においては、随分狭量な偏った意見であるとすら思う。
君が代に関しても、出典については『君=天皇』であるということは事実だと思いますし、それを否定してもどうなるものでもありません。
しかしながら、スポーツの国際試合や、国家間の交流をするときに流される日本側の国歌は、紛うことなく君が代ですし、オリンピックの表彰式の時に流れる君が代に涙する選手・観客・TVの前の視聴者の殆どは、『君が代は皇室が永遠に栄えることを祈念した歌だから、自分は納得がいかない』とは考えていないと思います。
本文でも述べさせていただいたように、自分の国に誇りを持てない人間に、他国を敬うといった気持ちは湧いてこないと思います。
例えば、日教組を批判して辞任することとなった、中山元国土交通大臣や、『日本は侵略国家だったのか?』との持論を国民に投げかけて結果退職に追い込まれた田母神元航空幕僚長にしても、決っして間違った意見を述べているわけではないと思います。
しかしながら、いくら自分が君が代について疑問を感じるといって、卒業式の国歌斉唱時に生徒の前で起立せずに抵抗するといった態度を示すのは、『教師』という立場を理解していない証拠ですし、大臣や幕僚長といった立場を無視した発言を貫いた、前出の2氏と同罪だと思います。
これらのことは、『言論・思想の自由』に名を借りた、立場をわきまえない自分勝手な行動であるにもかかわらず、結果としてそれらを『許してしまう』日本に、自分は危惧を抱いています。
ちなみに、フランス国家の『ラ・マルセイユーズ』。
あの勇ましい感じのメロディーラインが大好きなのですが、歌詞の内容には、凄まじいものがありますね・・・
Allons, enfants de la patrie,
Le jour de gloire est arriv´e!
Contre nous de la tyrannie,
L'´etendard sanglant est lev´e!
(bis)
Entendez-vous dans les campagnes,
Mugir ces f´eroces soldats?
Ils viennent jusque dans nos bras
Egorger nos fils, nos compagnes.
Aux armes, citoyens! Formez vos bataillons!
Marchons! Marchons!
Qu'un sang impur
Abreuve nos sillons!
いざ祖国の子らよ
栄光の日はやって来た
我らに対する暴君の血に染まった
旗は掲げられた
暴虐な兵士達の雄叫びが
荒野にとどろくのを聞くがいい
彼らは迫って来るのだ我らの妻子を殺そうと
武器を取れ市民よ隊を組め
進め進め我らの畑を汚れた血で満たすまで
1950年君が代を斉唱をすすめる大臣通達が出された。
1977年学習指導要領改訂のさい、教育課程審議会で一度も議論されないまま正式に国家と規定された。
という史実がある。
さて、法的根拠として1999年の法律がなっているわけだが、この法律の「別記第二」に君が代の歌詞
”君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで”
が記されているけれど、義務規定や罰則規定はない。この歌詞の、「君」の解釈については決着していない。それは憲法で保障された「思想・良心の自由」と、学校教育の現場において国旗掲揚・国家斉唱を義務とは上記根拠からない以上、ま→くんの下記のような記述は
>学校で君が代を歌わせないとか、国旗掲揚を行わないといったニュースを耳にする度に、心から憤りを覚えるようになった。自分の国を象徴するものに敬意を払えない国民を、教職にある者が育てようとしているといった現実には、恐怖感すら感じる。いつから、日本は、そのような危険思想を持つ人間を許容するようになってしまったのか?
>しかしながら、いくら自分が君が代について疑問を感じるといって、卒業式の国歌斉唱時に生徒の前で起立せずに抵抗するといった態度を示すのは、『教師』という立場を理解していない証拠ですし、大臣や幕僚長といった立場を無視した発言を貫いた、前出の2氏と同罪だと思います。
これらのことは、『言論・思想の自由』に名を借りた、立場をわきまえない自分勝手な行動であるにもかかわらず、結果としてそれらを『許してしまう』日本に、自分は危惧を抱いています。
危惧を抱くのは御勝手にですが、それは偏った意見でしかない。あなたのような意見を持つことは否定しないが、そうでない意見の人に対して、恐怖感を感じたり、教師という立場を理解しないなどと断定することは、偏った意見でしかない。(国家そのものである、大臣・幕僚長と一教師を同じ水準でどうして比較するかわからない)
一人の子供の生き方に影響を与える割合は、むしろ大臣・幕僚長よりも、直に接する教師の方が大きいのではないでしょうか?
『良いことは良い、悪いことは悪い』という部分に関して誰も責任を取らなかったツケが、今のこの世の中に繋がっているような気がしてなりません。
学校が大きい困難を抱え問題が出ていることはご存知だと思う。その理由は先生が忙しくて仕方ないからです。なぜ忙しいかというと、報告書を書かなければならないからです。教育委員会に報告書を出す。それからPTAに出す。それらが物凄く
忙しくさせている。一例をあげれば、テレビなんて観てる暇がない。そうすると、生徒の方が情報量が多いことになる。
何かのテレビ番組について聞かれても、先生方は
”そんなもの観てる暇は先生にはない”と
答えるしかない状況がある。そんな情報量の逆ギャップがあり、子供たちは、先生をバカにするという行為をする。なぜそんな報告書ばかりを書かなきゃならないかというと、文科省の官僚システムが網の目のように張り巡らされていて、それをやらないと呼び出される。教育委員会に教育のことに本当に詳しい情熱を持っている人がいるかどうか私は大いに疑問があります。学校内部についていえば、校長の問題がある。
校長は先生をやってきて最後にすごろくの上がりとして校長になるわけだけど、四年間無事に務めれば勲章がもらえる。だから、勤める学校でいじめがあっても新聞になんか書かれないようにして、まあまあの事なかれ主義になってしまう。しかし、あなたがいう日教組の教師の中にも何とかこども達を立派なおとなにしようと思って苦心惨憺している現場の先生方がいることを知ったほうがいいよ。そして、そういう先生だから自らの信念に基づき行動をすることが、教え子に対して何等恥ずることがないということを教師として教えている。それはひとつの意見であり、繰り返すが、それを危険思想だとみるのは、自らの意見と違う考え方を認めない、つまりデモクラシーを認めない偏ったものの見方です。国旗や国歌を認めない先生がいてもその理由も聞かず、否定することはナチスやスターリンと変わらないじゃないか?違うかね?
現場の先生方が忙しいことはわかりますが、そのことと、卒業式の国歌斉唱で起立しないことは直接関係がないと思います。
信念に基づき国歌斉唱で起立を拒むことも結構ですが、式典という場ではその気持ちを抑え、卒業生を厳粛に送り出し、また場をあらためて自らの主義を主張する。こういう生き方も「恥じることのない」一つの生き方だと思います。
言論や表現や思想の自由をもちろん否定するつもりはありませんが、卒業式という場では、そういった自由を自ら抑え、本来の卒業式とは直接関係のない波風を立ててしまうことを慎む行動の方が、品格があると思います。
現在の教師の方々がおかれている現状は、報道番組等で度々取り上げられており、本当に大変だと思います。
モンスターと呼ばれる親御さんが増殖し、それらを防衛するために・・・、また、何か事故が発生したときのために・・・、さらには、他校と比較される際に・・・様々な場面における説明責任&責任回避のために、各種書類作成に追われるといった現状は、我々建設業界も全く同じです。
しかしながら、それはそれ、これはこれです。
同じ境遇におかれながらも、甘んじることなく『先生』している方々は、沢山いらっしゃると思います。
自分の長男の担任の先生も、その一人だと思います。
彼がもし自分の息子(小さい頃は、自閉症一歩手前のアスペルガー症候群と判定されていました)の担任でなかったら・・・と考えるだけでもぞっとしてしまうほどです。
書類に追われていても、こんなことができる。
http://www2.tokai.or.jp/kisetu/
に、是非訪れてみて下さい。
確かに言葉が過ぎたかもしれません。すいませんでした。
私は、国旗・国歌を認めない先生にその理由を聴きもせず、危険思想だと決め付け否定し、現行の天皇制を無批判に肯定する姿勢は、偏っていると指摘してるだけです。
そして、卒業式国歌斉唱で起立をこばむことは、式典という場であるからこそ、自らの強い意志を表明するのではないでしょうか?
単なる自分の思想を自由に表明するという見方は表層的であると思います。私は卒業式でそのような行為をする先生を見たことはありませんが、もし見たら、波風を立て品格がないとは多分感じないとだろう思います。ただ、変な人だな。よっぽど国歌に対して気に入らないんだなとみるだけです。
ま→くんへ
こども達を立派なおとなにしようという職業が、先生の仕事です。
まずそれを実行するために、先生が困難な環境が今あることをお知らせしました。そして、日教組に属している先生でもそれは変わらないこともお知らせしました。ただ、
>学校で君が代を歌わせないとか、国旗掲揚を行わないといったニュースを耳にする度に、心から憤りを覚えるようになった。
自分の国を象徴するものに敬意を払えない国民を、教職にある者が育てようとしているといった現実には、恐怖感すら感じる。いつから、日本は、そのような危険思想を持つ人間を許容するようになってしまったのか?
などと書くので、それはあまりに偏った決め付けだと何度も書かせてもらいました。心から憤りや恐怖感を感じる前に、自分と違う考え方を持つ人をどうして許容できないか?わたしにはそれが、わからない。
わたしは、ま→くんのことを日教組の先生が自分の考えから、心から憤りを覚えそんな親には右傾化の恐怖感を感じ憲法改正の危険思想を持つものだと、いったらそうかもしれないが、そういう人がいてもいいじゃないの、なに力んで言うのと思います。
外見はそれなりの大人でありながら中身が子供のままである自分は、TPOをわきまえずに、つい突っ走ってしまうことがままあります。
としたかさんのように、『大人の品格』を持つことが出来るよう、これからは気をつけていきたいと思います。
品格という言葉に含まれる、様々な意味合いを気付かせていただき本当にありがとうございます。