すぐ動く・動かない、ということについて書いてきましたが、
これ、結局は、「やりたい」と感じているかどうか、
という問題になるのでは?
という話についてです。
何かを「やりたい」という気持ちは、一つの感情であり、
感覚だと思います。
これは、いくら頭で思考しても、わかるものではありません。
なぜなら、それらは「感じる」ものであるからです。
今回のテーマは
「すぐ動く人と動かない人の違い」ということですが、
すぐ動く人、というのは、この「感覚」を持っている
という人なんじゃないかと思うのです。
そして、すぐ動く時というのは、
自分の中でこの感覚にアクセスできる時、
ということが言えるのではないかな、と思います。
たとえば、毎日のようにジョギングをしている人は、
走ろうと思ったら、パッと走りに行きます。
走ったらどんなふうになるか、
体はどう感じるか、気持ちはどう感じるか、
その感覚を持っているので、
ジョギングをして得られるその「感覚」を
すぐに想起できるのだと思います。
同時に、走らないとどんなふうに不快か、という感覚も想起できます。
だから、走って得られる「快感」を求め、
「不快感」を味わわないために、行動する。
私も、毎朝、起きるとヨガ(のまねごとですが)をしています。
もう、かれこれ35年間、ほぼ毎日続けています。
それをしないと、体がすっきりしないからです。
やるな、と言われる方が辛いです。
ところが、その行動をしない人は、して得られる「快感」を
知らないのだと思います。
それを知らないゆえに、現状、抱いている感覚が
「不快感」であるということも、
わからないのかもしれません。
なので。
「やる気が起きない」という人は、
やる気が起きるのを待っていてもらちが開かないと
思った方がいいと思うのです。
いくら待っていても、考えていても、
「感覚」は味わえません。
感覚は、あくまで体が感じるものだからです。
なので、動く。
動いたらどんな感覚を感じるのかを、感じてみる。
そして、何度もその感覚を感じ、
その感覚の変化を感じているうちに、
何が「快」で、何が「不快」なのかが、
自分でわかってくるようになるのだと思います。
一つのことでその感覚がつかめれば、
他のことも同様だということに気づきます。
一つの外国語を習得したことがある人は、
二つ目の外国語を習得することが、
一つ目のときより、きっと楽に感じるでしょう。
何かをマスターしていくプロセスを知っているので、
感覚的に予想ができるからです。
部屋をすっきり片付けたことがある人は、
その気持ち良さを知っています。
だから部屋が汚れてくると、
「いやだなあ」と感じるようになります。
「不快感」は「快感」を知ると、
より、はっきりわかるようになります。
勉強ができる人、というのも、
勉強が面白いという感覚、
あるいは、勉強して良い点数を取って得られる感覚、
そういうものを知っています。
なので、知らないことを放っておくのが不快だったり、
点数が悪りと、悔しくて不快に感じたりします。
すぐに動ける人は、そうした「快・不快」の「感覚」の蓄積が
多い人だと思います。
もちろん、分野によって濃い薄い、得意不得意はあるでしょう。
運動に出かけるなら、すぐに動けるけれど、
文章を書くという課題はずっと後回し・・・とか。
薄いを濃いに、不快を快に変えるには、
感覚の蓄積が必要だと思います。
なので、すぐ動くことができない人は、
いろいろな分野について、それぞれに動く練習をして、
「感覚」の蓄積をはかればいいのではないかと思います。
「そんな必要ない」
「そこまでしてやりたくない」
そんなふうに感じることは、
おっしゃる通り、あなたにとってする必要がないことなのでしょう。
誰か得意な人にやってもらうとか、
やろうという気持ちを捨てるとかして、
「やらなくちゃ」と思うストレスを
別の視点で見直してみる必要があるかもしれません。
ただ、本当にやりたくないのか、
やってみたら面白いと感じるのかは、
これまた、やってみないとわかりません。
面白いはず、と思っていたことが、
やってみると意外とつまらなかった、とか、
またその逆も大いにあるからです。
食わず嫌いはしないで、とにかく食べてみる。
どんな食材や食事スタイルが自分に合うかは、
考えていても決まりません。
食べてみて、やってみて、だんだん決まるものでしょう。
行動パターンもしかり。
そして、人生の選択もまた、しかり、なのではないでしょうか?
すぐ動く人は、失敗も多いかもしれませんが、
リカバリするのも早いでしょう。
蓄積する経験も感覚も多くなるはず。
人生、たくさんの感覚を知ることが、
とても大切かもしれません。
そのために、人は「体」というものをまとって、
この世に生まれてきていると言えるのではないでしょうか?