父さん 母さん ごめんね

父さん これでよかったのかな 
母さん 何もできなくてごめんね

苦しむことなく

2006-08-04 16:00:13 | Weblog
翌2日 お昼にはもう孫たちが来て・・・・・
買い物に行って・・・・・
久々に 食事らしい食事してお風呂に入って・・・・・

ゆっくりしたような

7月3日 お天気がよく掃除もはかどり
午後1時過ぎ明るいドラマを見ていました。
そして電話 
「酸素を2から4に上げる。二酸化炭素が90??? 。」
どうしていいのかわかりません。
夫にも長女にも次女にも携帯も電話もがつながりません。
長男だけは 勤め先に連絡がつきました。
夫にも会社に連絡を取りましたが 捕まりません。
そうこうしている内 1時間ほどで皆連絡がついて
とにかく行くことにしました。
夫と私と次女は電車で、息子たちは 車で。
乗り換えの駅のホ-ムにいたのが7時40分頃。
そのころ 父は。
家に着いたのが 9時。
間に合いませんでした。
「帰ってきて。」

肺がん末期だったのに苦しむことなく 痛がることもなく。
穏やかに 静かに。

それが救いでした。
最期を 穏やかに 静かに生活をして欲しい のが願いでした。

でも なぜ 7月3日だったのか。



空を見ては おとうさん
月を見ては おとうさん
星を見ては おとうさん






お盆に来るからね

2006-08-03 16:14:23 | Weblog
7月1日 昨日妹が介護休暇を取れたと言うので帰るつもりでした。

早朝 いとこが亡くなったと連絡が入りました。
息子の車で いとこの家に向かいました。
昨日 河原で 自分で・・・・・。病気と経営不振が原因だそうです。
もう30年は会っていませんでした。
顔は見せられないということでお参りだけさせていただきました。

家に戻ると父は紙に書いたリクエストから 水が欲しいと指差しました。
楽のみで少し飲みました。その次 コ-ヒ-と指差しました。コ-ヒ-を少し飲みました。そして 次は ビ-ル でした。
コップにビ-ルを少し入れてもって行きました。
すると 自分で ゴクゴク 飲みました。
少しですが こわいくらい ゴクゴク飲みました。
「おじいさん ビ-ル飲めたの?知らなかった。」と言うと
うれしそうにうなずきました。
昨日までは スポイトで垂らすようにして水分をとっていたのに。
お見舞いに来てくれていたおじさんたちもびっくりです。
これを良かったと思うか 何かの知らせと思うか。

「9月にまた来るからね。お盆にも来るからね。」
父には言えず ちょっとそこまで という感じで

7月8月は妹にお願いすることにして 息子の車で1ヶ月ぶりに帰ることとなりました。名神 東名 首都高 と初めて車で帰りました。
1ヶ月ぶりの食事らしい食事? でも解放されたという感じはしませんでした。
これでいいのか。 すぐに引き返さなければならないかも。
帰ってしまっていいのか。
いろんな思いでした。
なのに 途中 孫のお土産はどっさり買い込んでいました。
これ以上持てないよ というくらい。
とにかく 順調に帰宅できました。


今日で1ヶ月。 「たち日」だそうです。
お坊さんがお参りに来てくださるそうです。
私は やはり 行けませんね。
遠くに来過ぎてしまったものです。
親不孝者です。

でも ようやく 「父は心の中で生きている。」と思うようになりました。




往きは救急車 帰りは息子

2006-08-02 17:23:19 | Weblog
そして30日朝 再びIVHを抜いてしまいました。
きれいに 跡形もないくらいに。
平日でもあり頼める人はありません。
救急車をお願いしました。
到着までそんなに時間はかかりませんでした。
タンカ―に乗せていただいて 車より楽であったと思います。
それでも父は 無表情です。
何をしたのか わかっていないようでした。
微熱の他は異常ありませんでした。
病院に到着してすぐ処置室に入り・・・・・
運よく 担当の先生が またIVHが出来るようにしてくださいました。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
本当に有難かったです。先生や看護師さんに癒されました。
そうそう ソ-シャルワ-カ-さんにも 救われました。
病院は病人を治すだけでなく
言葉や対応一つで家族も救われることを知りました。 

病院に着いてすぐ 私は息子に救急車で来たことを告げていました。
それで 息子は 500キロ走って迎えに来てくれることになっていました。
お迎えが来るまで点滴をすることになりました。

「○○チャンが迎えに来てくれるって。」と言うと父は「へえぇ」と驚いた顔をしました。遠くから来てくれることが理解できていたのですね。
点滴の間 父が退屈しないように足をもんだり耳掃除をしたりして待っていました。それにしても 処置室は寒くて辛かった。
息子が到着し 家に帰りました。
さすが 若さです。車からベッドまで父を抱いて運んでくれました。
何年も会っていなかったけれど 思い出が出来たと思います。
感激でした。


IVH

2006-08-01 17:39:55 | Weblog
退院の翌日 覚悟を決めて IVHの点滴を始めました。
それはそれは緊張でした。
父親の命を預かっている という感じでした。
病院の看護師さんの手作りのマニュアルを見て 一つ一つ確認しながら
空気が入らないように注意しながら・・・・・
世の中 変わったもんだ なんて思いました。
12時間かけて 1000cc弱 の栄養の点滴です。
食事が取れない父の最低限の栄養です。

寝ているようで寝ていない そんな感じでしたが
4時になると「水戸黄門」を楽しみにしていました。

ちょっと離れると「お―い」 と呼びます。
声が出ないはずなのに その時だけは 出るのです。
不思議でした。
行くと「胸をさすってくれ」と手のしぐさで訴えます。
どれだけさすっても もういい とは 言ってくれません。
疲れると「ちょっと トイレね」
そう言って 休憩してました。(悪い娘?)
ごめんね、父さん。
足の裏のマッサ-ジは長時間続けられて お父さんも満足そうでしたね。

夜 点滴をはずすと 私たち(私と母)も一息つけました。
が 起こされて
夜が明ける前から さすりながらお話していました、一方通行でしたが。

採尿器も使うことが少なくなり おしめの交換が増えました。

訪問看護師さんが 毎日午前中に 来てくれました。
それは とても 救いでした。
1時間ほどかけて 酸素や 血圧測定から 着替えまで。
看護のことなど無知な私にいろいろアドバイスをしてくれます。
訪問入浴も 週1回の予定が2回お願いできることになり本当に帰ってきて良かったと思いました。
往診は 毎週月曜日になっていました。
地元の医院の先生が来て下さいました。
父には とても安心できる方のようでした。

3ヶ月もたないだろうとか、何もしない方法もある(つまり 点滴しない ということ)とか おっしゃる先生でしたので不安 不信をもっていましたが案ずる必要はなかったようです。

20日朝9時頃 さあ今日の点滴を始めようとしたところ
IVH の管を外して(抜いて)しまっていました。
朝から母が胸をさすっていたのに その場所は見ていませんでした。
まさか 外しているなんて 思いもしませんからね。
急きょ 義弟を呼んで 病院へ直行 です。
父は 何の表情の変化もありませんでした。
痛くなかったのでしょうか。
「何もしてないよ。」といった感じのすまし顔です。

ただ 病院では車椅子に乗っているのが辛そうでした。
看護師さんにお願いして 処置室のベッドに寝かせていただきました。
IVH をさしなおしてもらって (外科の先生でしたがやり直しされたそうで左から右側に変わっていました。)お昼ころ 帰宅しました。
車の乗り降りは 義弟に抱いてもらうしかなかったので本当に申し訳なかったです。父さん お願い もう抜かないで。

なのにまた 数日後の夜 また抜こうとしていました。
今度はビリビリというテ-プをはがす音がして未然に防ぐことが出来ましたが  訪問看護の方に来ていただいて消毒等処置をしていただきました。
夜でも来て下さる事に感謝感謝です。
帰り際 「何もしない選択肢もある」と教えて(?)いただきました。
そうなのね――― そんなに嫌なら 止めてもいいのよね。
でも でも でも        出来ない。
父さん 嫌なのよね 点滴が。
つながれているのが 嫌なのよね。
父さん ごめんね。
でも お願い 生きてて。