狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

神が語る時

2020年10月19日 | 聖書
人が聞くとき、神は語ります。
これは、とても重要なことです。 聞くこと、それはその創造者に対する被造物の敬意の表れのひとつではないでしょうか? これは、ただ単に聞くよりも、もっと強い意味で、注意深く聞くことを意味します。
聖書を通して、私たちは、私たちの魂の救いに関しての神様のことばを聞くことができます。
それは、“私たちは罪人であり、しかし、神のひとり子のイエスキリストが、十字架で私たちの身代わりに、私たちが受けるべき罪の罰を受けて下さったので、自分が罪人であることを認め、イエスキリストを救い主として受け入れる者は、罪を許され、死後、永遠の天国に行くことができる。 “ と、いうことです。
“聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。“ と、預言者イザヤは、書き残しています。

また、イエスキリストを信じて、新しいいのちを受けたとき、私たちは、主を喜ばせるために、すべてにおいて、新しいいのちを受けた者としてふさわしく行動したいという願いが与えられます。

“主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。“ (コロサイ 1:10)

ですから、聖霊に導かれて、正しい方向に進むことができるように、神の言葉が私たちに明らかにすることに耳を傾ける必要があるのです。

道には罠が散らばっていて、人の敵である悪魔が私たちをつまずかせようとします。 イスラエルの偉大な王ソロモンは、若い日に、彼の祈りの中で、自分の責任を果たすことが出来るように、「聞き分ける心」を神に求めました。 私たちも彼のこの祈りに倣いたいものです。

“善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。“(1列王記 3:9)

また、使徒ヤコブがこのように言っています。

“人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。“( ヤコブ 1:19)

人が聞くとき、神は話します。それに反して、彼の言うことを聞きたくない人は、私たちの魂の敵(悪魔)の声を、聞くことになるでしょう。
みなさん、神様のことばを聞くために、聖書を読むことを心からお薦めします。

(Buena semilla より)

悪者の道は暗闇のようだ

2020年10月19日 | 聖書
 悪者の道は暗やみのようだ。
 彼らは何につまづくかを知らない。(箴言4章19節)


何年か前に、スペインのパルセロナでテロ事件がありました。 主犯は22才のモロッコ人だったと記憶しています。 その事件についての報道で、犯人グループの青年たちを教えたことのある先生が書いた、一通の手紙を見ました。 その手紙は、犯人を弁護するのものでも、事件に対する個人的な意見でもなく、その先生の目に映った教え子だった彼らの姿でした。 彼らは、環境に順応した、ごく普通の青年たちだったそうです。 そして、その手紙の最後で、この先生は、「私たちは、一体何を間違ってしまったのでしょうか?」と訴えていました。

 悲惨なテロ事件は相次いでいますが、この世で起こっている悲惨な事件はテロだけではありません。 残念なことに私たちの周りでも、家庭内暴力、校内暴力、いじめなど、悲惨なニュースは増える一方です。 そして、それらについて、「何を間違ったのか?」「何がつまづきとなったのか?」というコメントが集まります。 すると出てくる答えは、「教育が、管理が行き届いていなかった。」「教育方法が間違っていた。」「もっと、教育の予算を増やすべきだ。」などなのです。 しかし、どんなに、力を注いでも一向に改善に向かわないのが現実です。

 一体、何が間違っているのでしょうか? 聖書に答えがあります。あまりに簡単な答えなので、人々は見過ごしていますが、答えは、「人間が、神を無視して生きているため。」です。 人間が、それぞれ自分の思い通り、好き勝手に生きていることが原因なのです。 私たちは、神を無視して、物事を決めます。 神を無視した行動をとります。 どんな決断をするにしても、どの道を行くにしても、神様の意向を無視しているのです。 「神なんて必要ない。」「神なんて、役に立たない。」[もう少し努力をすれば・・・。」「もっと調査して研究を重ねれば・・・。」「もう少し予算をアップすれば・・・。」

 いいえ、どんなに努力を重ねても、どんなにお金をつぎ込んでも、問題は解決しません。 なぜなら、この世の中のすべての悪の原因は、人間の「罪」にあるからです。  

 それは、決して他人事ではありません。 「罪」は、あなたにも、わたしにも、すべての人間の中に宿っているからです。

私たちは、罪人なのです。 わたし達も、それぞれの人生で、神を無視し、自分たちの思い通りに生きているのではないでしょうか? そして、自分の思惑通りにいかないことがあると、「何を間違ったのだろう?」と考えます。 そして、「もっと努力が必要だ。」「もっと勉強が、もっと研究が、もっとお金が、もっと時間が・・・」と、神以外のあらゆるものに、答えを見つけようとするのです。 決して、「神様は、どう見ているのか、どう思っているのか、何とおっしゃっているのか?」と、聖書を開こうとしないのです。

 もう一度、最初のみことばを見てみましょう。

 悪者の道は暗やみのようだ。

 この「悪者」ということばは、「罪人」と置き換えることができます。

 罪人の道は暗やみのようだ。

 私たちは、暗やみの中、行き先さえ知らずに歩いているのです。 思いのままの方向に行き、壁に当たれば後戻りし、方向を変え、再び進んで、「まあ、明日は何とかなるさ。」と考えます。 けれども、どの方向に行っても同じ暗やみなのです。

あっちに行ってはつまづき、こっちに行ってはつまづき、の繰り返しです。 私たちは、一番重要なものを忘れているのです。 暗やみに必要なもの、それは、光です。


 すべてのものは、この方によって造られた。 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。

 光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ 1章3~5節)
 
 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネ 1章9,10節)

この光とは、イエス・キリストです。
神の御子イエス・キリストは、今から約二千年前に、人間の姿をとってこの世に来られ、私たち人間のすべての罪をその
身に背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださいました。 そして、死後三日目によみがえられました。
だれでも、悔い改めて、このイエス・キリストを、自分の罪のために死んでくださった唯一の救い主と信じるならば、すベの罪が許され、神の子供とされ、永遠の天国へ行く者とされるのです。

そして、イエス様は、私たちの光となって、私たちひとりひとりを忍耐と愛を持って導いてくださるのです。

日曜礼拝メッセージより)


最後の蝉

2020年10月19日 | 生活
今日の日中は、温度が28度まで上がりました。 昼過ぎに我が家の老犬を散歩させていると、頭の上から蝉の声が聞こえました。なんとまあ、遅生まれの蝉でしょう! 仲間が死に絶えた今頃になって、弱々しく鳴いているのです。 朝晩は冷えるし、どれだけ生き延びれることか…。
私は複雑な思いになり、しばらくそこを動けませんでした。
いつ生まれるのか、どこに生まれるのか、何日生きるのか、この蝉は選べません。けれども、その時、その場所で、ただ鳴き続ける。 その与えられた使命を全うしている…。 偉いなあ…。 なんて、胸が熱くなってしまったのは、秋ゆえの感傷のせいでしょうか。

semakimo






神は唯一です

2020年10月19日 | 聖書
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(テモテ第一2章5節)

知り合いの牧師から聞いた、クリスチャンになった彼のおばあさんの話です。このおばあさんは、クリスチャンになる前は、熱心な仏教徒だったそうで、1日三回、毎日欠かさず、仏壇に祈っていたそうです。時には、おばあさんに、釈迦の幻が現れて、「今日は、どこそこで事故があるから、近づくな。」などと、アドバイスをして、おばあさんを助けてくれることもあったそうです。その牧師は、おばあさんにイエス様の話をしたのですが、おばあさんは、「私には、釈迦がいるから。」と言って、なかなか真剣に話を聞いてくれなかったそうです。

時が経ち、おばあさんも年を取っていき、ある年には、「もう、今年中に、死ぬだろう。」と自分で言うほど、体調が悪くなっていました。そして、おばあさんは、だんだん死に対して恐怖を覚えるようになりました。それと同時に、以前は聞いてくれなかったイエス様の話をまじめに聞いてくれるようになったのです。

・天地を創造されたまことの神様がご存在すること。

・人間も神様の愛の対象として神様の創造物であること。

・ところが、わたし達人間は神様の前に罪人であり、このまま死んでしまうと、死後、生前に犯したすべての罪を神様に裁かれて、地獄に送られてしまうこと。

・けれども、私たちを愛する神様は、人間を永遠の地獄から救うために、ひとり子のイエス様をこの世に送ってくださったこと。

・罪の無いイエス様は、わたし達すべての人間の罪を背負い、十字架にかかって、父なる神様からの罰を私たちの身代わりとなって、受けてくださったこと。

・そして、神である証拠に、死後、三日目によみがえり、多くの人の前に現れてから、天に昇られたこと。

・わたし達が罪を悔い改めて、イエス様が、自分の罪の身代わりに死んでくださった唯一の救い主と信じれば、罪が許され、永遠の天国に行けるようになること。


おばあさんは、イエス様の救いについて、完全に理解できました。けれども、おばあさんには、大きな迷いがありました。それは、イエス様を信じて救われたいけれども、今まで、おばあさんを助けてくれた釈迦を裏切れないと言うことでした。本当に、真剣に悩んでいました。そして、「どうすれば、どちらが本当の神様だとわかるの?」と、たずねたそうです。そこで、孫である牧師は、こんなたとえ話をしたそうです。

ある家が火事になりました。何階かの窓から、小さな子供が顔を出して叫んでいます。その家の前に、二人の男がやって来ました。ひとりは、窓の子供に向かって、何やら注意しています。もう一人の男は、迷うことなく燃えている建物に飛び込んで子供を助けに行きました。さて、この二人のうち、どちらがこの子の父親でしょうか?

この話を聞いたおばあさんは、考え込んでしまいました。けれども、その翌日、「昨晩、イエス様を信じた。」と、牧師に報告したそうです。牧師は、そのときのおばあさんの顔は、実に晴れ晴れしていたと、語っていました。

さて、あなたが慕っているものは、本当に神様ですか?そして、あなたが信じる神様は、どんな犠牲を払って、何から、あなたを救ってくれるのですか?
 
あなたの永遠のために、どうか、もう一度、よくお考えになってみてくださいますように。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
わたし達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一4章9,10節


(特別伝道集会メッセージより)

やっぱり、日本人

2020年10月19日 | 生活
少し前まで、暑い暑いと言っていたのが、すっかり秋らしくなり、朝晩は、寒く感じるようになりました。 それにしても、この夏の暑かったこと!
朝は、氷を入れたアイスミルクティーと、トーストの朝食でしたが、今月の始めあたりからホットに変更。 最初は、まだ、暑くはなくても、寒くもないので、違和感があったホットミルクティー。 けれども、ここ数日は気温が下がって、何とも美味しく感じるようになりました。
そんな、ある朝、ホットミルクティーを一口飲んで、思わず、こう、呟いた自分にビックリ!!!

“あー、五臓六腑に、しみわたる~。“

日本暮らし22年、スペイン暮らし34年目、この頭のどこに、こんな日本語が、隠れていたのでしょうか…? ちなみに、五臓六腑、言えたのは、四臓のみ。 六腑は自信がないので挑戦せず。
たま~に、こんな現象があって、自分はやっぱり日本人だと、実感します。
それにしても、毎日、朝食を美味しくいただける健康が与えられていることに、感謝です。

semakimo.