先程、新聞の人生相談のコラムで、ある女性が、こんな事を言っているのを読みました。
“若いときは、何もかも楽しかった。 学校、大学、就職、友人との交遊、旅行、恋愛、結婚…と、ここまでは、まるで、友人たちと一緒に同じベルトコンベアーに乗っていて、楽しみが、あちこちから自然にやって来る感じだった。 ところが、病気をして、子供を持つことが出来なくなった。 友人たちは、相変わらずベルトコンベアーに乗ったまま、今は、子育てに夢中になっていて充実して幸せそうだ。 それなのに、自分は、ベルトコンベアーから下ろされて、何にも興味が持てず、楽しみも見つけられず、虚しく、どうしていいかわからずに 困惑している。 “
この女性の言いたいことは、よくわかりますし、その気持ちもわかるような気がします。 また、ベルトコンベアーの例えは、言い得て妙、大変面白いと思いました。
この女性にとっては、友人たちと同じように生きることが当たり前で、物心ついた頃から、そうしてきました。 結婚するまでは、皆と同じだったのに、今、自分だけが子供を持てないから、皆のように幸せになれない、どうしていいかわからない、生きることの意味を見失ってしまった、というところでしょうか。 私は、これを読んで、聖書の、このことばを思い出しました。
“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。…“ (詩篇 119:71)
一見、不幸に見える出来事が、本当に不幸であるとは限りません。 いいえ、その不幸に見える事柄が、実は幸せを見つけるきっかけだったということもあるのです。 私は、実際、そういう経験をしました。
この相談者の女性は、今、やっと、人生のスタート地点に立った様に私には、思えます。 今からは、人生とは何か、自分の存在の意味は何なのか、しっかり考えつつ、一歩一歩、自分の足で、自分の道を歩いて欲しいものだと思います。 そして、その結果、神の愛にたどり着けたら、これ以上の幸いはないでしょう。
“主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。“
(詩篇 35:18)
“人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。“
(箴言 16:9)
“みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。“
(箴言 16:20)
まだ、ベルトコンベアーに乗っている人たちには、早く、降りる事をお勧めします。なぜなら、神様は聖書を通して、こうも、おっしゃっているからです。
“人の目にはまっすぐに見える道がある。 その道の終わりは死の道である。 “
(箴言16:25)
“あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また<何の喜びもない。>と言う年月が近づく前に。“
(伝道者の書12:1)
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