「シュンポシオン: 倉橋由美子」(Kindle版)(単行本)
内容紹介:
ギリシア・ローマ古典学の教授宮沢明(数年前に交通事故で、妻を失っている)は、避暑地で会った知的な和泉聡子に強くひかれ、二人は美しく愛しあっている。そして、現役を退いた老カップルやユニークな学生ペアのそれぞれの愛のかたち…。21世紀に入って10年がすぎた夏の日の避暑地=半島の海辺にある別荘に集う数組の男女の優雅な〈饗宴(シュンポシオン)〉と〈愛(エロス)〉の時間を描く長編恋愛小説。
単行本:1985年11月刊行、394ページ。旧かな遣い
文庫:1988年12月刊行、462ページ。現代かな遣い
著者について:
倉橋由美子(くらはしゆみこ): ウィキペディアの記事
1935(昭和10)年、高知県生まれ。1956(昭和31)年、日本女子衛生短期大学別科卒業、明治大学文学部フランス文学科入学。1960(昭和35)年、明治大学学長賞に応募した「パルタイ」の受賞が決まり、選者の平野謙が「毎日新聞」の文芸時評で推奨、文学的出発となる。同年、大学卒業、大学院に進む。1961(昭和36)、『パルタイ』により女流文学者賞を受賞。1962(昭和37)年、大学院中退。田村俊子賞受賞。「パルタイ」以降、日本の伝統的文学風土から自由な、独自の文学的世界が文壇内外から注目を浴びることとなる。代表作に『アマノン国往還記』(泉鏡花文学賞)等。2005年6月没。
大学生のとき「大人のための残酷童話:倉橋由美子」を読んで面白かったので著者に興味がわき、次いで発売された本書を買ったのだ。以来、30年以上積読のまま本棚に置かれていた。なくさずによく持っていたものだと思う。
2005年に著者が亡くなったときにも読んでみようと思ったが、手に取ることもなく積読状態が続いた。さすがに気になってきたので、ようやく32年を経て読み始めた。
アマゾンの内容紹介を読まずに家で単行本から読み始めた。ちょっと驚いたのは「旧かな遣い」で書かれていること。1985年に発売された本だから、描写されている時代はいつ頃なのかと思った。おそらく戦前から昭和30年頃なのだとあたりをつけて読み進める。ところが途中で「テレビ電話」がでてくる。「あれっ?」と思って本の内容紹介を確認すると、本の舞台は「21世紀に入って10年がすぎた夏の日の避暑地」なのだそうだ。「ああ、近未来小説なのか。」だとしたら旧かな遣いは変だ。
通勤電車で読もうとKindle版を購入。続きを読み始めて再び「あれっ?」と思った。現代かな遣いで書かれているのだ。「これじゃ、原作の良さが台無しだな。なんでこんなことするのだろう。」と思った。文庫版を底本としているので、念のために単行本から3年たって刊行された文庫版を取り寄せてみた。するとこちらも現代かな遣いなのである。不思議だ。著者みずから2種類のかな遣いで出版していたとは。。。なぜそうしたかはどこにも書かれていなかった。単行本は福武書店、文庫版は新潮社から刊行されいる。もしかするとそのあたりの事情が関係しているのかもしれない。
単行本はこちら。(クリックで拡大)
本の出だしはこのとおり。旧かな遣いと現代かな遣い。(クリックで拡大)
さて、中身はどうだったかというと残念ながら全く期待外れだった。アマゾンでは5つ星をつけている人が多いので、あくまで僕の好みではなかったということにしよう。主観的な感想として以下に述べることにする。
これまでの人生で読んだ本の中でいちばん退屈だった。あと少し読み進めれば面白くなるのかと思いながら読み進んだのだが、退屈は最後のページまで徹底して続いていた。
ひと夏を海辺の別荘で一緒に過ごす老若男女。彼らはみなお金に不自由しない上流階級の人間たちだ。食事や音楽、海水浴、散歩などをして優雅に過ごす。ただそれだけの話である。何か特別な事件や関心をひく出来事がおこるわけでもなく、物語はだらだらと続く。本の帯には核戦争や核兵器のことが書かれているが、それは本書のごく2~3か所に世間話の中で語られているに過ぎない。
そもそも彼らが交わす会話をうっとうしく感じた。それぞれ専門領域がある文化人だ。ギリシア・ローマ古典学の教授、ピアノを弾き、クラシック音楽に詳しい女性、現役を退いた老カップル(このうち老紳士は元総理大臣という設定なのだが)中国の古典に通じている。彼らが交わす会話は食べ物から文学、思想、信条、恋愛などあらゆることに及ぶわけだが、いちいち専門的な事柄が引用される。
上流階級といっても、専門領域や経験は人それぞれだし、食べ物をいちいちフランス文学に出てくる何かと比較したところで、それは知識のひけらかしと感じるだけで、他の人と共感できる何かにはならない。食べているときにいちいち蘊蓄(うんちく)を垂れないでほしいものだ。ギリシア・ローマ文学のサークル内の会話なら納得できるが、日常会話としてはあり得ないよなぁ、と延々と続く文化人気どりの会話にうんざりしてしまった。(こういう知的な会話が好きな方には申し訳ないけれど。)
そして内容紹介にある「〈愛(エロス)〉の時間」には少し期待していたのだけれど、なかなか見当たらない。1か所だけセックスシーンが婉曲な表現で半ページほど書かれていたくらいだ。それもあっけなく終わる。あとは男の気を引くために思わせぶりをする女がいたり、日焼けした男の背中の皮を女たちが嬉々として剥がすシーンがあったくらいだ。どれもどうってことはない。
「章」と呼んでよいかわからないが、文章は適当な分量で区切りが設けられ番号がつけられている。最初の章と最終章を固定しておけば、あとの章はどのような順番に並び変えても影響はなさそうだと思った。
あと不自然に感じたのは近未来小説として外してしまっていること。本書が執筆されたのは1980年代前半なので、致し方ないことだが、2010年を経験済みの僕には次のようなことが「ちぐはぐ」に思えた。
- 登場人物たちが米ソによる核戦争の危機を話題にしていること。
執筆時点で著者はゴルバチョフのペレストロイカやソ連邦の崩壊を知らないから無理もないことだが、現代の世界情勢や核戦争を懸念する理由が全く異なっていることを知っている僕としては「なんだかなー。」と思ってしまう。
- 登場人物たちの通信手段はテレビ電話だ。
テレビ電話は実現したが、実際のところ日常生活には普及していない。未来を読み間違えている点が妙に可笑しい。
- ワープロ専用機が使われている。
登場する女性の中に小説を書いている人物がいるのだが、彼女が使っているのは音声認識付きのワープロ専用機である。執筆時点ではパソコンは普及していなかったから仕方がない。文章入力装置としてパソコンは使いづらく、プリンタもドットマトリックスの時代だから校正用の出力としても不便だった。そしてワープロ専用機は2000年頃に発売されなくなってしまったわけで。。。
- 「ディスク」という媒体
登場人物たちは音楽を聴くとき「ディスク」を再生する。またワープロ専用機の記録媒体も「ディスク」だ。CDの生産が開始されたのが1982年、CDの販売数がLP(アナログレコード)を抜いたのが1986年である。ディスクには違いないが、記録媒体をCDやCD-Rと呼んでいる私たちには「ディスク」という言葉が浮いてしまう。
- 自動車電話
執筆時点でPHSや携帯電話は発売されていない。自動車電話はごく一部の人が使っていた時代である。登場人物たちが離れ小島に遊びに行ったとき天候悪化によって戻ってこれなくなるくだりがあるのだが「自動車電話が使えないから救助を呼べない。」というセリフがあった。著者が描く2010年に携帯電話やスマートフォンは存在のかけらもない。
どれも執筆された時期を考慮すれば仕方がないことだ。しかし、近未来小説としては「外してしまったなぁ。」と思うわけである。本を買ってすぐ読んでいれば、このように時代とのずれを感じなくてすんだのだから、僕の不評の半分は自分のせいだとしておこう。
30年以上積読して温めてきたわりには残念な読書体験になってしまった。倉橋由美子の作品を読むとしたら初期の頃のものを読んだほうがよいのかなと思う。
それでも読んでみたい方は、こちらからどうぞ。
「シュンポシオン: 倉橋由美子」(Kindle版)(単行本)
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
内容紹介:
ギリシア・ローマ古典学の教授宮沢明(数年前に交通事故で、妻を失っている)は、避暑地で会った知的な和泉聡子に強くひかれ、二人は美しく愛しあっている。そして、現役を退いた老カップルやユニークな学生ペアのそれぞれの愛のかたち…。21世紀に入って10年がすぎた夏の日の避暑地=半島の海辺にある別荘に集う数組の男女の優雅な〈饗宴(シュンポシオン)〉と〈愛(エロス)〉の時間を描く長編恋愛小説。
単行本:1985年11月刊行、394ページ。旧かな遣い
文庫:1988年12月刊行、462ページ。現代かな遣い
著者について:
倉橋由美子(くらはしゆみこ): ウィキペディアの記事
1935(昭和10)年、高知県生まれ。1956(昭和31)年、日本女子衛生短期大学別科卒業、明治大学文学部フランス文学科入学。1960(昭和35)年、明治大学学長賞に応募した「パルタイ」の受賞が決まり、選者の平野謙が「毎日新聞」の文芸時評で推奨、文学的出発となる。同年、大学卒業、大学院に進む。1961(昭和36)、『パルタイ』により女流文学者賞を受賞。1962(昭和37)年、大学院中退。田村俊子賞受賞。「パルタイ」以降、日本の伝統的文学風土から自由な、独自の文学的世界が文壇内外から注目を浴びることとなる。代表作に『アマノン国往還記』(泉鏡花文学賞)等。2005年6月没。
大学生のとき「大人のための残酷童話:倉橋由美子」を読んで面白かったので著者に興味がわき、次いで発売された本書を買ったのだ。以来、30年以上積読のまま本棚に置かれていた。なくさずによく持っていたものだと思う。
2005年に著者が亡くなったときにも読んでみようと思ったが、手に取ることもなく積読状態が続いた。さすがに気になってきたので、ようやく32年を経て読み始めた。
アマゾンの内容紹介を読まずに家で単行本から読み始めた。ちょっと驚いたのは「旧かな遣い」で書かれていること。1985年に発売された本だから、描写されている時代はいつ頃なのかと思った。おそらく戦前から昭和30年頃なのだとあたりをつけて読み進める。ところが途中で「テレビ電話」がでてくる。「あれっ?」と思って本の内容紹介を確認すると、本の舞台は「21世紀に入って10年がすぎた夏の日の避暑地」なのだそうだ。「ああ、近未来小説なのか。」だとしたら旧かな遣いは変だ。
通勤電車で読もうとKindle版を購入。続きを読み始めて再び「あれっ?」と思った。現代かな遣いで書かれているのだ。「これじゃ、原作の良さが台無しだな。なんでこんなことするのだろう。」と思った。文庫版を底本としているので、念のために単行本から3年たって刊行された文庫版を取り寄せてみた。するとこちらも現代かな遣いなのである。不思議だ。著者みずから2種類のかな遣いで出版していたとは。。。なぜそうしたかはどこにも書かれていなかった。単行本は福武書店、文庫版は新潮社から刊行されいる。もしかするとそのあたりの事情が関係しているのかもしれない。
単行本はこちら。(クリックで拡大)
本の出だしはこのとおり。旧かな遣いと現代かな遣い。(クリックで拡大)
さて、中身はどうだったかというと残念ながら全く期待外れだった。アマゾンでは5つ星をつけている人が多いので、あくまで僕の好みではなかったということにしよう。主観的な感想として以下に述べることにする。
これまでの人生で読んだ本の中でいちばん退屈だった。あと少し読み進めれば面白くなるのかと思いながら読み進んだのだが、退屈は最後のページまで徹底して続いていた。
ひと夏を海辺の別荘で一緒に過ごす老若男女。彼らはみなお金に不自由しない上流階級の人間たちだ。食事や音楽、海水浴、散歩などをして優雅に過ごす。ただそれだけの話である。何か特別な事件や関心をひく出来事がおこるわけでもなく、物語はだらだらと続く。本の帯には核戦争や核兵器のことが書かれているが、それは本書のごく2~3か所に世間話の中で語られているに過ぎない。
そもそも彼らが交わす会話をうっとうしく感じた。それぞれ専門領域がある文化人だ。ギリシア・ローマ古典学の教授、ピアノを弾き、クラシック音楽に詳しい女性、現役を退いた老カップル(このうち老紳士は元総理大臣という設定なのだが)中国の古典に通じている。彼らが交わす会話は食べ物から文学、思想、信条、恋愛などあらゆることに及ぶわけだが、いちいち専門的な事柄が引用される。
上流階級といっても、専門領域や経験は人それぞれだし、食べ物をいちいちフランス文学に出てくる何かと比較したところで、それは知識のひけらかしと感じるだけで、他の人と共感できる何かにはならない。食べているときにいちいち蘊蓄(うんちく)を垂れないでほしいものだ。ギリシア・ローマ文学のサークル内の会話なら納得できるが、日常会話としてはあり得ないよなぁ、と延々と続く文化人気どりの会話にうんざりしてしまった。(こういう知的な会話が好きな方には申し訳ないけれど。)
そして内容紹介にある「〈愛(エロス)〉の時間」には少し期待していたのだけれど、なかなか見当たらない。1か所だけセックスシーンが婉曲な表現で半ページほど書かれていたくらいだ。それもあっけなく終わる。あとは男の気を引くために思わせぶりをする女がいたり、日焼けした男の背中の皮を女たちが嬉々として剥がすシーンがあったくらいだ。どれもどうってことはない。
「章」と呼んでよいかわからないが、文章は適当な分量で区切りが設けられ番号がつけられている。最初の章と最終章を固定しておけば、あとの章はどのような順番に並び変えても影響はなさそうだと思った。
あと不自然に感じたのは近未来小説として外してしまっていること。本書が執筆されたのは1980年代前半なので、致し方ないことだが、2010年を経験済みの僕には次のようなことが「ちぐはぐ」に思えた。
- 登場人物たちが米ソによる核戦争の危機を話題にしていること。
執筆時点で著者はゴルバチョフのペレストロイカやソ連邦の崩壊を知らないから無理もないことだが、現代の世界情勢や核戦争を懸念する理由が全く異なっていることを知っている僕としては「なんだかなー。」と思ってしまう。
- 登場人物たちの通信手段はテレビ電話だ。
テレビ電話は実現したが、実際のところ日常生活には普及していない。未来を読み間違えている点が妙に可笑しい。
- ワープロ専用機が使われている。
登場する女性の中に小説を書いている人物がいるのだが、彼女が使っているのは音声認識付きのワープロ専用機である。執筆時点ではパソコンは普及していなかったから仕方がない。文章入力装置としてパソコンは使いづらく、プリンタもドットマトリックスの時代だから校正用の出力としても不便だった。そしてワープロ専用機は2000年頃に発売されなくなってしまったわけで。。。
- 「ディスク」という媒体
登場人物たちは音楽を聴くとき「ディスク」を再生する。またワープロ専用機の記録媒体も「ディスク」だ。CDの生産が開始されたのが1982年、CDの販売数がLP(アナログレコード)を抜いたのが1986年である。ディスクには違いないが、記録媒体をCDやCD-Rと呼んでいる私たちには「ディスク」という言葉が浮いてしまう。
- 自動車電話
執筆時点でPHSや携帯電話は発売されていない。自動車電話はごく一部の人が使っていた時代である。登場人物たちが離れ小島に遊びに行ったとき天候悪化によって戻ってこれなくなるくだりがあるのだが「自動車電話が使えないから救助を呼べない。」というセリフがあった。著者が描く2010年に携帯電話やスマートフォンは存在のかけらもない。
どれも執筆された時期を考慮すれば仕方がないことだ。しかし、近未来小説としては「外してしまったなぁ。」と思うわけである。本を買ってすぐ読んでいれば、このように時代とのずれを感じなくてすんだのだから、僕の不評の半分は自分のせいだとしておこう。
30年以上積読して温めてきたわりには残念な読書体験になってしまった。倉橋由美子の作品を読むとしたら初期の頃のものを読んだほうがよいのかなと思う。
それでも読んでみたい方は、こちらからどうぞ。
「シュンポシオン: 倉橋由美子」(Kindle版)(単行本)
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
一字一句、漢字や平仮名にこだわりを持つ作家、詩人たち、国文学者は猛反対しましたが結局強行されてしまいました。
その後、新仮名遣いが世間で浸透、ワープロで打てないなどというひどい理由も後押しし、出版社の方でも受け入れざるを得なくなってしまいました…。
詳しい経緯を省いたのは読んでいて嫌な気分になると思ったからです。一つだけ打明け話をすると、実用的な側面からでもなく、未来を見据えた改革でも無かった、そして多くの人々の怒りを買い、大量の負の遺産を残した事件でした。
有名な反対者、批判者としては福田恆存、丸谷才一、井上ひさし、吉行淳之介、澁澤龍彦、大野晋などがいます。
改革派の理論的根拠とされたのは漢学者吉川幸次郎の学説です。
長文失礼しました。
はじめまして。詳しく教えていただき、ありがとうございました。そのような文学史的事情があったことは全く知りませんでした。
倉橋由美子さんが、本書を2通りの仮名遣いで出版したのも、そのような事情を意識したのか、あるいは2つの仮名遣いの中で揺れていたのかもしれませんね。
大好きな井上ひさしさんが反対者側だったということも教えていただいて知りました。
私家版日本語文法
というものがあります。国文法を体系的かつ論理的に、しかし遊び心もふんだんに説いた本です。上記の国語改革についても話が及びますので御参考までに。
パルタイはちょっと毛色が違うのですが、初期の作品はちょっと不条理小説という雰囲気ですね。
大分経ってから、「大人のための残酷童話」を読みましたがこれはこれで面白かったです。
「アマノン国往還記」は私的にはちょっと残念な作品で、こういうアイディアでは鈴木いづみ「女と女の世の中」、最近では倉数茂「始まりの母の国」のほうが面白かったですね。
私にとって倉橋由美子といえばアバンギャルドだったし、旧かな遣いというのはちょっと違和感があるんです。
「私家版日本語文法」は購入したまま未読状態です。これは絶対に読みたいですね。
アマゾンのレビューでもたまに旧かな遣いで入力している人がいますね。昔ならともかく今では「変わった人なのだろう」という印象を持ってしまいます。
T_NAKAさんはおそらく倉橋由美子の作品を読んでいらっしゃるだろうなと想像していました。次に読むとしたら「聖少女」か「パルタイ」になると思います。
電車通勤読書では伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」を読み始めました。自分より若い作家を読むのは珍しいです。まだ始めのほうしか読んでいませんが、昔の作家とくらべて文章の技量や知識量が明らかに劣っていると感じています。
> 私にとって倉橋由美子といえばアバンギャルドだったし、旧かな遣いというのはちょっと違和感があるんです。
そう言われてみればおっしゃるとおりですねぇ。
皆さんのコメントとは毛色が異なりますが、近未来技術の予測についてです。
私が子供の頃、新聞の正月特版の中に未来技術の予測や夢を語るものが必ずありましたよね。
私の記憶では、空中浮遊して高速で走る自動車が必ず含まれていたのですが、これは未だに実現していません。一方で、携帯電話についての予測は有りませんでした。
現在から振り返ると、これら2つの技術が、最も外れた予測だったと分かります。
また、デジタル記録メディアについては、最も変化の激しい技術でしょうね。
子供の頃は、オープンリールのテープレコーダーと8ミリシネマのアナログ技術が主流でした。
ラジカセやウォークマンの登場で、カセットテープが主流になりました。
アナログビデオが登場して8ミリが姿を消し、デジタルテープの登場で音声がデジタル記録されるようになりました。
音声については、カセットテープからMD、CDと変遷を経て、今やメモリ記録になっています。
ビデオもメモリへデジタル記録される時代になっています。
そして現在は、音声やビデオの販売はCDやDVDよりもインターネット配信が主流になりつつあります。これほど短期間に様々な技術や製品、サービスが入れ替わる例は、他には見られないと思います。
30年前にこれらを予測出来る人は世界中に一人も居なかったと思います。
脱線するとスタートレック(宇宙大作戦)で出てくるデータ記録媒体はクリスタルですね。これは未だに実現されていませんが、量子ドット技術が進み、さらにその技術の先にある人工分子(固体の中に分子と同じ電子準位を作る技術)の研究開発が進めば、光や磁気を用いたクリスタルへの高密度記録が可能になる筈です。
私の未来予測はクリスタルへの高密度デジタル記録技術の登場です。
こういうのを考えるのは楽しいですよね。
コメントありがとうございます。ほんと未来の技術や昔は未来をどのように予想していたかを考えると楽しいですね。
どのような技術や製品が生まれるのかを予測するのはとても難しいです。そしてそれが広まるかどうかはコストや人間や社会がもつ習慣や嗜好に影響されますし。
次の2つの絵は有名ですが、実際はこのようになっていません。体にフィットする宇宙服のような洋服はこれからも広まらないでしょう。トイレに行くとき脱いだり着たりするのが大変ですから。w
2011年の東京
http://netgeek.biz/wp-content/uploads/2015/12/1209meiji_prophecy1.jpg
20年後のコンピュータライフ
http://netgeek.biz/wp-content/uploads/2015/12/1209meiji_prophecy2.jpg
そしれ2061年の東京はこのようになっているでしょうか?僕はとてもこうなるとは思えません。全部建て替えるための費用が考慮されていませんしね。
http://i1.wp.com/kaigai-matome.net/wp-content/uploads/2016/04/img1459606115.jpeg
「シュンポシオン」と同時期に書かれた「アマノン国往還記」は退屈しないと思います。リベラル派への凄まじい皮肉が炸裂した痛快な小説ですが、これも退屈だったと書かれている方もおられるので、好みや思想的立場によるのかもしれません。
倉橋さんは歴史的仮名遣いで原稿を書いた人なので、小説の単行本は多くがそのようになっています。文庫本は妥協して新仮名遣いになっています。
評論もたいへん鋭かった人ですが、ぜひ第一評論集「わたしのなかのかれへ」(講談社文庫)を読んでいただきたいです。当時(昭和40年前後)文壇・マスコミを左派が牛耳っている中で、何者にも忖度せず、学生運動や文学界を鋭く分析した数々の評論は、まったく古びていません。同い年の大江健三郎はじめ、進歩的知識人を一刀両断した巻末の「文学的人間を排す」は伝説的です。評論家としての才能も確実に持っていた方でした。