「神の国を第一に求め、そのほかのことはみこころにお委(ゆだ)ねする。」
この文章を今朝読みました。
クリスチャンの理想像として当たり前、と思っていたけど、新しい発見でした。
これは「神様のことを思ってみこころに委ねる」、って感じで、
「神様がそうされたから、これは仕方ないか。本当はこうなって欲しかったけど。」と諦める消極性でしょうか?
「やることはやった。あとはどうなるか、結果は神のみぞ知る。」と達観することでしょうか?
そうは思いません。
「神の国を第一に求め」という部分は超積極的です。攻撃的な攻めの姿勢です。
あまりにすごいものを求めているのです。
世のいろんな出来事以上のことを積極的に求めているので、世のことは小さく思えるので気にならない。
あえて気にしないようにしているのではなく、すごいことを求めているがあまりに、世の結果を気にすることにさえ気づかない。
神の国のことと世のことはそれくらいのレベルで、大きな差なんでしょう。
100億円の取引がどうなるかっていう会議に向かう時に、それを欠席してでも1円玉がタダでもらえる場所に行こうか?とか、いつもより10円安いスーパーのタイムセールに行こうか迷うでしょうか?
迷わず会議へ、というか「迷う」ということすら思いつきもしません。
これは「世のことは自分と関係ない」っていう冷たい主義でしょうか?
そうではなくて、世のことは結果的に(神の国のことを求めている結果として)、気にするんです。
これは良い意味であって、困っている人に自然と声をかけてしまう、そうせざるを得ない自分になっているってこと。
そうなったらいいな。
ホントに今日そんな自分であったらいいな。と思います。