☆☆ 一生少年~ 大阪 堺

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"楽しい時間の始まりだ”

S32年の、懐かしい、話。 (甲子園の、明、暗)

2021-01-16 14:48:19 | 日記
坂商野球部については、ほぼ60年間を見てきましたが、なんといっても、クライマックスは昭和33年の北四国予選の決勝戦でした。
この試合にかてば甲子園!相手は松山商業、0対0延長13回、安藤投手は無死から3塁打を打たれ香川監督は敬遠策を命じ無死満塁とした。
その時の捕手は言わずと知れた我らが山条さんであった。
ノーアウト満塁から出てきた松商の1番バッター角田は浅いライトフライ、3塁ランナーは釘付け。
次は2番、セカンド ”T”さん。”T” さんは、安藤さんのインコース膝元のたまを避けた。これが Tさんの ”暗” である。
彼は松商卒業後地元のノンプロ球団に入り私としょっちゅう相まみれることとなった。彼の野球人としての評価で先ず出てくる言葉は、「あいつは坂商戦でデッドボールを逃げた、逃げんかったら甲子園いっとるのにのー」という言葉であった。
私はそれを聞くたび ”T” さんが可愛そうになるのを、禁じえなかった。
安藤さんはその回を0で押さえ甲子園、国体でもさらに神宮でも伝説の大活躍された。
写真、熱狂的な坂商ファンの、魚屋の、おっちゃん、右端は網野君のお父さんか。バスの右端は、菅 校長先生 かな。

(野球部で、1年後輩の、有名な書道家でもある、赤尾(香石)君が、スマホの会に、投稿してくれたものを、転載しました。)
私はその時の模様を覚えていない。安藤さんは、シュートピッチャーなので、インコースの際どい球はよくありました。

まあ、本当に懐かしいです。私が入学した年です。毎日応援練習に励みました。真っ黒になって、中央球場に通いました。
優勝した帰りのバスは、盛り上がり、坂出八幡神社へ、応援団バスも参理、市内を廻った時には、私ら応援団の者にも沿道の人々が、口々にお目出とうごく郎さーん、などなど声を張り上げて、町中で大歓迎してくれて感謝感激大喜びでした。一生に一度の経験でした。あの時のキャッチャー山条さんだったのですね。
(スマホの会で親しくして頂いてる、35年卒の、早苗 さんからの、メール です。)







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