リートリンの覚書

弥生時代 10 住居は円から四角い家へ


住居は円から四角い家へ


弥生時代になると、
鉄器の導入により
様々な木材加工ができるようになりました。

縄文時代から続く竪穴住居は、
弥生時代になると
縄文時代のように丸太、
もしくは半裁した木材を使うだけでなく、
板材も使うようになりました。

組み合わせることで
比較的自由に建築しやすい木材の登場により、

高床倉庫や佐賀県吉野ヶ里遺跡で
推定復元されているような
大型建物が作られたと考えられます。

また、
竪穴住居の形にも変化が見られます。

縄文時代はおおむね円形、
もしくは楕円形で、
住居内に6~8本ほどの柱を
円く立てて作られているのに対し、

弥生時代になると
地域や時期で差はありますが、
だんだんと竪穴住居の床面の形が
四角になっていきました。

縄文時代は
環状列石(ストーンサークル)が作られたり、
環状集落が作られたりと、
「環」に強いこだわりが見られましたが、

弥生時代になるとそれらの意識は
薄らいでいったのかもしれません。

九州北部の竪穴住居は
住居の中央部分に2本の柱を立て、
そこに垂木を掛けて建てられた家が
多く見つかっています。

中には土を盛り上げて固めた
土製のベッドのようなものが
作られた家もあったようです。

また、
鳥取県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡では、

家の中に排水路を作り、
建物の外に巡らせた溝に水が流れるような
すごい仕組みが施されたものまで
見つかっています。


建物のバリエーション


弥生時代にも縄文時代同様か、
またはそれ以上に
建物の種類があったことがわかっています。

一般的な竪穴住居のほかにも、
集会や祀りのために使用された大型建物、
高床式の倉庫や
物見櫓(ものみやぐら)などが
造られていたと考えられています。

・竪穴住居

・集会や祀りのための建物

・高床式倉庫
ねずみの害や湿気を防ぐため、
床を高くしてつくられた倉庫です。
穀物を保存するのに利用されました。

・物見櫓


弥生時代の世帯事情


縄文時代には、
ひとつの竪穴住居に
4人から6人ほどが
一緒に暮らしていたと考えられていますが、
弥生時代も同様だったようです。

ただし、
ひとつの集落内での住居数は増えていきます。

その理由は、
弥生時代の食料事情は
縄文時代に比べて良くなり、
人口も増加したからです。

多い時には、
ひとつのムラに千人がくらしていたとも
言われています。

一方、
家の中はというと、
こちらも縄文時代と同じように、

煮炊きするための土器や
そのほかの生活道具と共に、
ツルで編んだカゴに土器を入れ、
その中に米や保存食を入れて
紐でぶら下げていたこともあったようです
(吊り棚)。

トイレは家の中には見つかっていません。


感想

木材、
丸太以外に板材が作られるようになったとは、

弥生時代、意外に進んでいたのですね。

また、
家の中に用水路が通っていたとは、
発想が凄いです😳

でも、
家の中に水が流れるとなると、
ちょっと寒そうですね。

住むための家ではなかったのかな?

しかし、
環にこだわっていた縄文人。

何故、こだわりを捨てたのか?

ただの流行だった?

それとも、
いままで見えていた精霊さんたちが
見えなくなった?

まぁ、
一番に考えられるのは
道具が発達し、
材料の調達、加工が容易になった。

そのため、
材料をふんだんに使い
建物を建てる事が
出来るようになったからでしょうか。

環の建物は材料少なく建てられそうですが、
四角い住居は材料がより必要ですからね。

より現代の物に近づいてきたのですね。

さて本日はこの辺で。
明日も弥生時代シリーズ続きます。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。

(参考)
・知られざる弥生ライフ 著者 譽田亜紀子
監修 大阪府立弥生文化博物館

・中学生の歴史 帝国書院

・中学 諸説用語&資料集 社会 受験研究者

・日本史B

・日本国紀 百田尚樹 幻冬舎

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