岩宿の発見
1949年。
その当時、火山灰が降り積もる
洪積世(こうせきせい・1万年前以前)の
日本は無人の地と考えられていました。
1949年7月27日、当時、
明治大学の大学院生であった芹沢長介は
相沢忠洋(あいざわただひろ)に会い、
群馬県岩宿の稲荷山の
切り通しの赤土(ローム層)の中から
石器が出るという話を聞きます。
9月7日、芹沢は明治大学考古学研究室に
相沢の資料を持参し、当時助教授だった
杉原荘介(すぎはらそうすけ)に
それを見せました。
杉原は事の重大さに驚き、
その月の11日~13日まで
岩宿で試掘を行いました。
その際、ローム層から両面加工の
楕円形握槌(にぎりづち・ハンドアックス)が
出土しました。
相沢の言葉は真実であることが判明しました。
岩宿Ⅰ・Ⅱ文化の石器群は、
一万年以前の洪積世、
旧石器時代の人類によって
残されたものと判明しました。
しかし、岩宿遺跡=旧石器時代の発見は、
容易に認められませんでした。
(どうやら東大の圧力がかかったらしく、
当時の学界は冷淡な対応でした。)
それに対し、
杉原や芹沢は旧石器時代遺跡の類例を
求める作業に着手し、
東京都茂呂遺跡(もろ)、
長野県茶臼山遺跡(ちゃうすやま)などと、
つぎつぎと旧石器時代の遺跡を発見し、
発掘していきました。
旧石器時代の遺跡の数は359か所にのぼり、
北海道から九州地方までの主要な遺跡が、
文化の種類によって
分類されるにいたりました。
しかし岩宿を発掘した
杉原と芹沢の間に齟齬が生じます。
1956年に出版された
岩宿遺跡の報告書について芹沢は
相沢忠洋氏を斡旋の労を取って
いただいたことに対して
厚く御礼申し上げると述べています。
それに対して芹沢は、
相沢忠洋は岩宿遺跡発掘の
単なる斡旋者ではなく、
彼は日本旧石器時代研究の
パイオニアなのだと反論しました。
参考)
旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ 竹岡俊樹
出典:Wikipedia
感想
岩宿遺跡についても調べてみたいのですが、
現在図書館閉鎖中ということでかないません。
残念です。
さて、
相沢氏の石器を持つ写真を見ました。
相沢氏の遺物に対する
強い愛情を感じました。
本当に考古学が好きだったのでしょう。
だから、偉業を残せたのだと思います。
相沢氏の発見が無かったら、
日本の考古学の研究は
かなり遅れていたことでしょう。
ただ、アマチュアだったために、
ないがしろにされてきました。
相沢氏が教科書に記載されるまでの間、
数々の試練があったと思います。
今は、業績を認められて
本当によかったと思います。
学界の派閥争いも…正直いえばアホくさい。
現代でもありますね。
歴史の資料をもとに作家の方が
歴史本を書くと、
いちゃもんを着けてくる知識人がいます。
間違いなどがあるのなら、
注意することはあるかもしれませんが、
きちんとしたアドバイザーのもと
書かれた本に抗議するとは。
一般人からするとなんて
心の狭い人間だろうとしか思えない。
まぁ、
研究費等のしがらみもあるとは思いますが。
何事も他人の業績など気にせず、
ただひたすらに真実を突き止めることが
大切に感じます。
さて以前、
ニュースで海底遺跡の研究をしたいと
スポンサー集めをしている
学者さんがいました。
正直、
自分がお金に余裕のある人間でしたら、
彼に研究費を寄付するのにと
残念に思ったことを思い出しました。
日本は賛成の土壌が多くは
骨など考古学の研究に必要なものが残らない。
だったら、
海底に素晴らしいい遺跡が
あるとされているのに
研究しないのはおかしいと思います。
もっと海底遺跡の研究もして欲しいものです。
日本の真の姿が(歴史)が
表に出てくることを切に願います。