弥生人の生活
弥生人の普段着
3世紀~4世紀、
中国で書かれた
『魏志』「倭人伝」
(正式名称・「魏書」東夷伝倭人条)には、
倭国の人々は、
「貫頭衣(かんとうい)」
と呼ばれる服を着ていたと記されています。
文字から想像すると、
1枚の布を半分に折り、
その折り目の部分に穴を開け、
そこから頭を出した
簡易なものではないかと思われます。
ところが、
実際に出土する弥生時代の織り機は
長さ30㎝~40cmくらいの
棒状の道具を組み合わせた
とても単純な構造です。
これでは幅の広い布を織る事はできません。
当時、布を織る際、
織る人が自分の身体の肩幅に合わせて
縦糸と横糸を張り、
糸を左右にくぐらせて織っていたようです。
そのことから「貫頭衣」は、
細長い布を2枚用意し、
頭を出す部分以外を
縦に縫い合わせて着用した
衣服だったと考えられています。
現在の反物の幅は38cmが標準ですから、
その原点は
弥生時代の織物にあったのかもしれません。
材料は「カラムシ」という
繊維から作られた布です。
ウエストは腰紐で縛って着ていました。
顔にはイレズミをいれていたようです。
基本は素足。
冬は毛皮や布を縫い合わせて作った
靴を履いていたようです。
様々な服装と装飾品
前期
・ムラの首長の服装と装飾品
顔にイレズミを施し、勾玉の首飾り、
貝腕輪などの
特別な装飾品を身に着けています。
木櫛、貝腕輪、首飾り、銅か鉄の柄の剣
後期
・ムラの首長または戦士か?
強さを誇示するための儀式装束なのか?
戦いの道具(戈、盾)木の甲
・王(または高貴な人)
王または身分の高い人物、
あるいはシャーマンの服装。
頭の木櫛や銅製の腕輪、勾玉の首飾り、
玉杖など、多くの装飾品を身につけています。
風習
「魏志倭人伝」には、
「男は大小なく顔や身体に
イレズミをしていた」
という記述が残されています。
それを物語るように、
愛知県亀塚遺跡から出土した弥生土器には、
顔中にイレズミを施した人物が
描かれていました。
当時、
イレズミは海に潜る海士(あま)が、
魔除けや鮫よけとしていれていたものを
起源として、
次第におしゃれなどの装飾となったと
「魏志倭人伝」に書かれています。
また、
弥生人の中には頭に布を巻いた男性や、
髪を結ったり垂らしたりした女性も
いたようです。
弥生人は裸足で暮らしているという記述も
残されていました。
ただし、
「魏志倭人伝」の書き手である
陳寿(ちんじゅ)は、
実際に当時の日本列島を訪れてこれを
書いたわけではありません。
彼が記したのは、
たまたまこのような
特徴を持った人たちだったということであり、
あくまでも一例と捉えたほうがいいでしょう。
・抜歯
山口県土井ケ浜遺跡からは、
抜歯をした人骨が多く出土しています。
抜歯の対象は主に犬歯や切歯で、
また男性よりも女性のほうが
高頻度で見られます。
感想
「貫頭衣」
教科書の弥生時代のイラストでよく見かける、
ベージュの布にウエストのあたりを
紐で結び着る服ですね。
農作業、争いと
ゆったりした時間は
取れなかったでしょうから、
貫頭衣を
染めたり、刺繍をしたりする事は
出来なかったのではないでしょうか。
そして、
顔にはイレズミ。
抜歯の風習も縄文時代から引き続き
行われていた。
イレズミも抜歯も、
想像しただけで痛い😣
これらの情報は、
魏志倭人伝から知ることができる。
しかし、
中国は周辺国を下に見ている事が多いので、
何処まで真実か?
と言ったところですね。
不思議なのは、
現在の反物の基準幅が38cm。
弥生時代の布も同じぐらいとみられる。
もしかすると、
布の世界は、
弥生時代から連綿と
続いているのかもしれませんね。
もっとコメント書こうと思ったのですが
これ以上思い浮かばない😅
ということで
今日はこの辺で。
明日も弥生時代シリーズ続きます。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。
(参考)
・知られざる弥生ライフ 著者 譽田亜紀子
監修 大阪府立弥生文化博物館
・中学生の歴史 帝国書院
・中学 諸説用語&資料集 社会 受験研究者
・日本史B
・日本国紀 百田尚樹 幻冬舎