リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十七 天命開別天皇 十一 ・天智天皇4年の出来事 一



日本書紀 巻第二十七 
天命開別天皇 十一

・天智天皇4年の出来事 一



四年春二月二十五日、
間人大后(はしひとのおおきさき)が
薨(みまか)りました。

この月、
百濟国の官位の階級を
勘校(かんこう)しました。

なお、
佐平(さへい)の
福信(ふくしん)の功をもって、

鬼室集斯(きしつしゅうし)に
小錦下(しょうきんげ)を授けました。

(その本の位は達率(だちそち)です)

また、
百濟の百姓(たみ)、
男女四百人余りを、

近江国の神前郡(かむさきのこおり)に
居させました。

三月一日、
間人大后のために、
三百三十人が度(わた)りました。

この月、
神前郡の百濟人に
田を給(たまわ)りました。

秋八月、
達率(だちそち)の
答㶱春初(とうほんしゅんそ)を遣わして、
城を長門国に築かせました。

達率(だちそち)の
憶礼福留(おくらいふくる)、
達率の四比福夫(しひふくぶ)を、
筑紫国に遣わして、

大野及び椽の二つの城を築かせました。

耽羅(たむら)は、
使いを遣わして來朝しました。



・間人大后(はしひとのおおきさき)
間人皇女・孝徳天皇の后、天智天皇の妹
・勘校(かんこう)
照らし合わせて誤りを正すこと。また、書物を校訂すること。決算などについて再調査をすること。商較。校量
・神前郡(かむさきのこおり)
滋賀県東南部



(感想)

天智天皇4年春2月25日、
間人大后が亡くなりました。

この月、
百済国の官位の階級を再調査し、
勘案ました。

なお、
佐平の福信の功をもって、
鬼室集斯に小錦下を授けました。

(そのもとの位は達率です)

また、
百済の百姓、
男女400人余りを、

近江国の神前郡に居住させました。

3月1日、
間人大后のために、
三百三十人が得度しました。

得度(とくど)とは、日本の古代、律令制度下において、剃髪して僧籍に入ること。
年に一定数の得度を許す年分度と臨時度があり、原則は定員10名。

定員が10名に比べると、
330名とは多いですね。

この月、
神前郡の百済人に田を与えました。

秋8月、
達率の答㶱春初を派遣して、
長門国に城を築かせました。

達率の憶礼福留、
達率の四比福夫を、

筑紫国に派遣して、
大野および椽の二つの城を築かせました。

耽羅は、
使者を派遣して来朝しました。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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