リートリンの覚書

麁服と繒服 2 三河国の生糸


三河国の生糸


繒服を調進してきた三河国。
三河国、
領域は現在の愛知県東半部です。

三河国の
絹の歴史は古くからあります。
その一部のぞいてみましょう。

三河国(愛知県)には、
「犬頭糸」と「赤引糸」という、
二つの上質な絹がありました。

「犬頭糸」は天皇の御衣の御料として、
「赤引糸」は伊勢神宮へ献上され、
天照大神の御料として
古くより用いられてきました。

しかし、
隆盛を誇った三河国の蚕糸業も
「南北朝の動乱」による朝廷の混乱、

その後の
「応仁の乱」から続く
戦国時代の到来により、
衰退してしまいます。

南北朝の動乱を発端に、
「神祇令」に規定されている
宮中祭祀の殆どが廃絶されていきました。

大嘗祭も例外ではなく、
北朝2代・光明天皇の大嘗祭を最後に
中断してしまいます。

これを境に、
三河国からの繒服の調進が
途絶えたと考えられています。

大嘗祭が再開された
1687年の記録を見ますと、

江戸時代の東山天皇の大嘗祭では、
繒服の代人(だいいん)が
調製していたことがわかります。

このことから、
代々、繒服を献上してきた
神服部宿禰の家系は
すでに途絶えてしまったと思われます。

一度途絶えた三河の養蚕業ですが、
国学者・羽田野敬雄が、
著書「三河蚕糸考」を、

古橋家6代当主の
古橋源六郎睴皃(てるのり)へ送り、
献糸を復活するよう助言をしました。

「三河蚕糸考」を読んだ睴皃は、
三河の気候風土が
養蚕に適していることを知り、
養蚕の復興するため邁進します。

睴皃は桑苗を稲武地域の各村に配布し、
養蚕業を奨励、
稲橋村と武節村に養蚕場を開設します。

さらに座繰器械18台を購入して、
繭から生糸にする製糸場を武節村に開設、

稲橋村・武節村で生産した繭と生糸は、
名古屋博覧会に出品され、
賞牌を受賞しました。

明治14年に400年以上途絶えていた、
伊勢神宮への
神御衣奉献(かむみそほうけん)が、
復活。

その後、神御衣奉献は、
一度も途切れることなく
現在も毎年続いています。

1915年に
大正天皇の大嘗祭が
執り行われることを知った愛知県では、

繒服調進の復興運動が起こり、
当時の愛知県知事・松井茂の元には
三河の各地より調糸献納を
願い出る訴状が届いたといいます。

そこで愛知県知事の松井茂は
絹副調進が愛知県へ下命されるよう
宮内省に願い出ました。

それとともに、
三河国が
古来優良なる生糸の産地であるという
文献調査結果と、

稲橋村武節村組合献糸会の沿革ならびに
現況を報告しまた。

この愛知県の働きかけにより、
1915年6月に、
宮内省より繒服調進命令がくだりました。

そこで、
献糸会長であった古橋源六郎道紀は
直ちに献糸会役員を招集し、
繒服の原料となる繭を提供すべく
作業に着手し始めました。

その当時、
献糸作りに関わる者は、
必ず沐浴斎戒し、
奉仕女は毎日洗髪垂髪とし、
男女共に白衣の作業浄服を着せ、
清浄に努めたといいます。

完成した「繒服」は
京都御所に上納されました。

しかし、
最盛期には養蚕業を営んでいた家が
500戸あった稲武ですが、

その後、
経済成長と共に人口が流出。

手間暇がかかる養蚕業は衰退の一途をたどり、
遂には、3戸となってしまいました。

そんな折、
大嘗祭の繒服調進の依頼を受けました。

そこから、
「蚕の里・稲武」を蘇らそうという
機運がたかまりました。

そして有志が集まり、
養蚕スキルの伝承、作品作りに
日々励んでいらっしゃります。

昭和・平成・令和の大嘗祭では引き続き、
愛知県より繒服が貢進されています。


感想

隆盛を誇った三河国の蚕糸業も
朝廷の混乱、戦国時代の動乱により
衰退してしまい、

その間に、
神服部宿禰の家系が途絶えてしまった。
残念なことですね。

全ての工程を
阿波忌部の地で行い作られる麁服。

それに対して、

養蚕作業と糸作りを三河で行い、
その糸を京都の機場に送り織り上げる
繒服。

何故、
作られる工程に違いが生じたのか?

気になりますね。

神服部宿禰の家系が
今もなお続いていたなら、
そのヒントがもらえたかもしれません。

とても残念に思います。

さて、
一度衰退した三河国の
蚕糸業ですが

三河国の人々の
絹に対する熱い思いで復活しました。

ひとつは、
古橋源六郎睴皃が始めた、
養蚕の復活。

そして、神御衣奉献の復活。

そして、もう一つは、
「繒服調進の復興運動」

復興運動が起きた当時の県知事は、
偉いですね。
県民の声を聞き、
県民の要望に応えようと努力しました。
(県民の声をブロックする。
誰かさんに爪の垢を煎じてのませたい)

その熱い思いが
三河国の養蚕を復活させたのですね。

三河国の伝統工芸、養蚕。
今もなお続いています。

素晴らしいことです。
応援しています!

さて、
「犬頭糸」と「赤引糸」は、
どのような糸だったのでしょうか?
気になりますね。
今度、記事にしたいと思います。

さて、今日はこれで。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。


参考にさせていただいた本

・シルクのはなし 
小林勝利 鳥山國士

・絹の文化誌 
篠原昭 嶋崎昭典 白倫 編著

・皇后さまとご養蚕 
扶桑社

・麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布
(著)中谷 比佐子・安間 信裕 監修 門家 茂樹

ここからは、
調べ物をした際、
気になったことを覚書しています。
本文とは関係ありません。

・豊田市(稲武地域含む)は昔、加茂郡だった。

・郡名の由来は、
京都賀茂神社の神領地だったことに
因む説あり。

・稲武町は、賀禰郷だった。

・松平氏は、賀茂神社の氏子だった説あり。

へーなるほどねー。





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