リートリンの覚書

麁服と繒服 3 神服部氏とは?


神服部氏とは?


麁服を調進するのが、
阿波忌部氏であると決まっていたように、

古くは
繒服を調進する
神服部(かんはとりべ)氏
という氏族が存在していました。

しかし、
現在においてはその存在が確認できず、
すでに家系は途絶えてしまったと
考えられています。

服部(はとりべ)とは、
古代朝廷に機織の技術を持って
仕えた氏族です。

そして
古代の職業部の機織り部門を担った
機織部(はたおりべ)に由来する姓氏です。

服部(はとりべ)を含む多くの職業部は、
「大化の改新」により、
大半が朝廷から解放されました。

しかし、
その後の律令体制において
「渡来人系」の一部の「部」は
引き続き拘束され、

大蔵省の被官である
織部司(おりべのつかさ)などに属しました

織部司は、
日本古代の律令制において、
大蔵省に属する機関の一つであり、
染織の高度な技術をもち
高級織物の生産に従事していました。

「神服部氏」は、
4~7世紀ごろに
朝鮮半島・中国大陸から
日本に移住してきた渡来人、
「秦氏」ではないかという説が
根強くあります。

195年、仲哀天皇の御代に、
秦の始皇帝を祖とする
功満王(こうまんおう)が渡来し、
珍宝蚕種等を奉ったという記録が、
「三代実録」に記されています。

これは、
我が国の養蚕に渡来帰化人が関与した、
最も古い記録です。

さらに
「新撰姓氏録」によれば、
283年、応神天皇の御代に、
秦始皇帝の後裔と称する
弓月君(ゆづきのきみ)が、
127県の民を率いて来朝したとあります。

その際、弓月君は、
金銀玉帛(帛は絹織物のこと)などを
献上しました。

弓月君らは、
大和の
「朝津間(あさつま)の腋上(わきがみ)」(現在の奈良県御所市周辺)を与えられ、
集団生活を営んだとされています。

その後、
彼らは仁徳天皇の御世に至って
全国に配置されました。

そして、
直ちに養蚕に従事し、
織り上げた絹織物を貢納しました。

天皇は、
「秦王が献じた糸・綿・絹を服用したところ肌膚に柔らかく温かであった」
と言って弓月君に

「波多公(はたのきみ)」
の姓を送ったといいます。

服部は「はたおり」が変化した言葉で、
機織の「機(はた)」は
秦氏の「秦(はた)」に由来します。

律令制において、
渡来帰化人が綾部司に属し、
養蚕機織技術の頂点に君臨し、
朝廷や豪族の貢納用の養蚕機織に
従事したという記録も、
この説の根拠のひとつになっています。

「日本書紀」天武紀によると、
神服部連に宿禰の姓が
与えられていることが見てとれます。

天武天皇は、
通例とは別に大規模な大嘗祭を、
祭祀として遂行したとされています。

その際、
神服部連は、
大嘗祭のために最上質な絹織物を
貢進したのではないでしょうか。

そしてそのことが、
天武天皇の大嘗祭において、
特別な貢献として認められ、
宿禰の姓をいただいたのではないでしょうか。

"神服部連と繪服の間に、渡来帰化人・秦氏の存在があったと考えるのは、早計であろうか。"

『麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布』
で安間信裕氏は述べています。


感想

繒服を調進する神服部氏。

現在、
血筋は途絶えたと考えられています。

果たして、
神服部氏は誰だったのか?

多くは、
秦氏ではないかと論じられているそうです。

ふむふむ。

では、
日本列島に絹はいつからあるのか?

遺跡からの出土品から推測しますと、

古くは、
弥生時代の遺跡から絹が出土しています。
しかし、その多くは大陸からの輸入品でした。

やがて、
古墳時代の遺跡になると
国産と輸入品の
割合は半々になるそうです。

大宝律令が制定されると
調物として絹を納めるようになり、
近畿から関東・東北へと広がります。
(日本列島の絹の歴史は、後日詳しく記事にします。)

古墳時代から遺跡から出土する絹が
国産と輸入品が半々になる。
その同時期に秦氏が大陸から帰化しています。

やはり、
秦氏が大陸の最新機織りの技術を持ち込み
国産絹織物の生産が著しく向上し、
絹織物が全国に広がっていった
可能性が高いですね。

そして、
大化改新のころから、
日本における養蚕の担い手は、
主として大陸からの帰化人で
相当な技術を持っていた。

律令制において、
渡来帰化人が綾部司に属し、
養蚕機織技術の頂点に君臨し、
朝廷や豪族の貢納用の養蚕機織に
従事したという記録もある。

養蚕機織技術を持っていた秦氏=
神服部氏
にたどり着くのでは?

秦氏に関しては、
かなり興味があります。

「新撰姓氏録」によれば、
283年、応神天皇の御代に、
秦始皇帝の後裔と称する
弓月君(ゆづきのきみ)が、
127県の民を率いて来朝したとあります。

弓月君は、
西域東部から河西、甘粛にかけて
領有していた大国・弓月国から
やってきたとされています。

弓月国の月氏は、
玉を中国に持ち込み、
かわりに中国原産の絹を売り出して
交易しました。


月氏は、東方では、「玉の民族」。

西方では、「絹の民族」という名で

知れ渡っていました。


絹の民族と呼ばれた月氏。


その末裔であるとされる、秦氏。


やはり、

絹と縁の深い秦氏が

神服部氏である可能性が

高いのではないでしょうか。


さて、今日はこれで。


最後まで読んで頂き

ありがとうございました。



参考にさせていただいた本

・シルクのはなし 
小林勝利 鳥山國士

・絹の文化誌 
篠原昭 嶋崎昭典 白倫 編著

・皇后さまとご養蚕 
扶桑社

・麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布
(著)中谷 比佐子・安間 信裕 監修 門家 茂樹



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