日本書紀 巻第二十七
天命開別天皇 六
・新羅、百済の要所を取る
・将軍らを派遣し新羅を打つ
・福信の罪
二年春二月二日、
百濟は、
達率金受(だちそちきんじゅ)等を
遣わして、
調(みつき)を進めました。
新羅人は、
百濟の南の畔の四州を
燒き燔(あぶ)り、
あわせて、
安德等の要地を取りました。
ここにおいて、
避城(へさし)は、
賊(あた)から近く、
故に、
勢いにより居ることはできませんでした。
乃ち州柔(つぬ)に還り居ました。
田来津(たくつ)の計ったところの如く。
この月、
佐平の福信が、
唐の俘(とりこ)の
続守言(しょくしゅげん)等を、
上するのに送りました。
三月、
前の将軍の
上毛野君稚子
(うあみつけののきみわかこ)、
間人連大蓋
(はしひとのむらじおおふた)、
中の将軍の
巨勢神前臣訳語
(こせのかむさきのおみおさ)、
三輪君根麻呂
(みわのきみねまろ)、
後の将軍の
阿倍引田臣比邏夫
(あへのひけたのおみひらぶ)、
大宅臣鎌柄
(おおやけのおみかまつか)を遣わし、
二萬七千人を率いて、
新羅を打ちました。
夏五月一日、
犬上君(いぬかみのきみ)(名を欠く)、
馳しらせ、
兵事(いくさのこと)
を高麗に告げて還りました。
糺解(くげ)と石城(しゃくさし)で
見ました。
糺解は、なお、
福信の罪を語りました。
六月、
前の将軍の上毛野君稚子
(かみつけののきみわかこ)等は、
新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)の
二城を取りました。
百濟王の豊璋は、
福信(ふくしん)が
謀反の心がありと嫌って、
掌を穿ち革で縛りました。
時に、
自ら決することが難しく、
どうしていいのかわかりませんでした。
乃ち、
諸々の臣に問いかけ、
「福信の罪は、
既にこのようにある。
斬るべきか、斬らざるべきか」
といいました。
ここにおいて、
達率徳執得(だちそちとくしゅうとく)が、
「この惡逆な人は、
放捨(ほうしゃ)は合いません」
といいました。
福信は、
卽ち、
執得(しゅうとく)に唾をはきかけて、
「腐狗癡奴 (くちいぬかたくなやつこ )」
といいました。
王は、
勒健児(ちからひと)に斬らせて、
首を醢(ひしお)にしました。
・賊(あた)
敵
・兵事(いくさのこと)
戦争の策
・石城(しゃくさし)
=忠清南道扶余の東南の石城里
・放捨(ほうしゃ)
物事を打ち捨てて、近づけないこと。うち捨てること
・醢(ひしお)
塩づけにすること
(感想)
天智天皇2年春2月2日、
百済は、
達率金受らを派遣して、
調(みつき)を献上しました。
新羅人は、
百済の南の辺の四州を
焼きはらい、
あわせて、
安徳らの要地を奪取りました。
そして、
避城は敵との距離が近く、
こういうわけで、
勢いにより居ることはできませんでした。
州柔に戻り居ました。
田来津の計ったところと同じでした。
この月、
佐平の福信が、
唐の捕虜の続守言らを、
献上するため送りました。
3月、
前の将軍の上毛野君稚子、
間人連大蓋、
中の将軍の巨勢神前臣訳語、
三輪君根麻呂、
後の将軍の
阿倍引田臣比邏夫、
大宅臣鎌柄を派遣して、
27000人を率いて新羅を打ちました。
夏5月1日、
犬上君(名を欠く)は、
馬を馳しらせ、
軍事を高麗に告げて還りました。
糺解と石城で会いました。
糺解は、なお、
福信の罪を語りました。
糺解は、豊璋のことです。
ややこしい。
6月、
前の将軍の上毛野君稚子らは、
新羅の沙鼻岐奴江の二城を取りました。
百済王の豊璋は、
福信が謀反の心がありと嫌って、
掌に穴をあけ、革で縛りました。
時に、
自ら決することが難しく、
どうしていいのかわかりませんでした。
そこで、
諸々の臣に問いかけ、
「福信の罪は、
既にこのように明らかである。
斬るべきか、斬らざるべきか」
といいました。
ここにおいて、達率徳執得が、
「この悪逆な者は、放捨は合いません」
といいました。
福信は、卽ち、執得に唾をはきかけて、
「腐狗癡奴」といいました 。
腐狗癡奴は、
腐った犬のような愚かな奴
、と言った所でしょうか。
王は、
健児に斬らせて、
首を塩づけにすることにしました。
福信は本当に
謀反の心があったのでしょうか?
その心があったなら、
朝廷に王子・豊璋を返して欲しい
、と請願しないと思うのですが…
豊璋が
福信の人望に嫉妬して殺した
、という説があるようです。
福信の罪が記載されていないことから
その説に頷けます。
さて、百済の運命はいかに。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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