リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十四 ・日羅、来朝する



日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十四

・日羅、来朝する



ここにおいて、

百済国主は、
天朝を怖畏(ふい)して、
敢えて勅に違えず、

日羅(にちら)、
恩率(おんそち)、
德爾(とくに)、
余怒(よぬ)、
奇奴知(がぬち)、
参官(さんかん)、
柁師德率次干德(かどとりとくそちしかんとく)
水手(かこ)等、

若干人を遣わし奉りました。

日羅等は、
吉備児嶋屯倉(きびのこじまのみやけ)
に行き到りました。

朝庭は、
大伴糠手子連
(おおとものあらてこのむらじ)
を遣わして、
慰労しました。

また、
大夫等を
難波の館に遣わして
日羅を訪ねさせました。

この時、
日羅は甲(よろい)を被り、
馬に乗り、
門底の下に到りました。

すなわち、
庁の前に進み、
進み退いて跪拜(きはい)し、
嘆恨(たんこん)して、

檜隈宮御㝢天皇
(ひのくまのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)
の世に、

我が君、
大伴金村大連
(おおとものかねむらのおおむらじ)が、

国家のために、
海外(わたのほか)に使い奉った、

火葦北国造刑部靫部阿利斯登
(ひのあしきたのくにのみやつこおさかべのゆけいありしと)
の子の、

臣、達率日羅(だそちにちら)は、

天皇が召すと聞き、
恐畏(きょうい)し、
来朝しました」
といいました。

すなわち、
その甲(よろい)を解き、
天皇に奉りました。

すなわち、
館を
阿斗桑市(あとのくわのいち)に営んで、

日羅を住まわせ、
欲するままに供給しました。



・怖畏(ふい)
おそれおののくこと。畏怖
・跪拜(きはい)
ひざまずいておがむこと。膝を地につけ、身をかがめて礼拝すること
・嘆恨(たんこん)
嘆き恨むこと。なげき悔やむこと
・檜隈宮御㝢天皇
(ひのくまのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)
宣化天皇
・海外(わたのほか)
海外
・恐畏(きょうい)
おそれること



(感想)


(敏達天皇12年)

ここにおいて、
百済国主は、
天朝を恐れ、
かしこみ、

無理に勅に背かず、

日羅、恩率、德爾、余怒、奇奴知、
参官、柁師德率次干德水手ら
若干人を派遣し奉りました。

日羅らは、
吉備児島屯倉に到着しました。

朝廷は、
大伴糠手子連を派遣して、
慰労しました。

また、
大夫らを難波の館に派遣して、
日羅を訪ねさせました。

この時、
日羅は鎧を着て、

馬に乗り、
宮門の下に出向きました。

そのとき、
政庁の前に進み、
進み退いて、

膝を地につけ、
身をかがめて礼拝し、
嘆き恨んで、

「宣化天皇の世に、

我が君、
大伴金村大連が、
国家のために、

海外に派遣し奉った、

火葦北国造刑部靫部阿利斯登の子の、

私、達率日羅は、

天皇が私をお呼びになったと聞き、

おそれ、かしこみて、
来朝いたしました」
といいました。

そして、
身につけていた鎧を解き、
天皇に献上しました。

すぐに、
館を阿斗桑市に造営して、

日羅を住まわせ、
欲するとおりに供給しました。

無事、来朝した日羅。
彼はどのような活躍をするのでしょうか?

明日に続きます。

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