リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十七 ・日羅暗殺のその後



日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十七

・日羅暗殺のその後



天皇は、
贄子大連(にえこのおおむらじ)、
糠手子連(あらてこのむらじ)に詔して、

小郡(おごおり)の西の畔(ほとり)の
丘の前に収め葬りました。

その妻子、
水手(かこ)等を、
石川に居させました。

ここにおいて、
大伴糠手子連が議って、
「一処に集めておきますと、

恐らくは、
変(はかりごと)が生じるかもしれません」
といいました。

すなわち、
妻子を石川の百済村に居らせ、
水手等は石川の大伴村に居させました。

德爾(とくに)等を収縛(しゅうばく)し、
下百済の河田村に置きました。

数の大夫を遣わして、
その事を推問(すいもん)し、

徳爾等は伏罪(ふくざい)して、
「これは、信(まこと)です。
恩率、参官が教えさせたのです。

僕等は、
人の下であり、
敢えて違(たが)えません」
といいました。

これによりて、
獄(ひとや)に下し、
朝廷に復命しました。

すなわち、
葦北(あしきた)に使を遣わして、

悉く、
日羅の眷属(やから)を召して、
徳爾等を賜わって、

思う存分に、
罪を決めさせました。

この時、
葦北の君等は、
受けとり、

皆、殺し、
売嶋(みめしま)に投げました。
(彌売嶋はおそらく、姫島です)

日羅を葦北に移して、
葬りました。

後になって、
海の畔の者が、
「恩率の船は、
風を被(う)けて、海に没した。

参官の船は、
津島に漂泊(ひょうはく)し、

すなわち、
始めて帰ることができた」
といいました。



・石川(いしかわ)
大阪府の石川の中流域
・百済村(くだらのむら)
旧河内国錦部郡百済郷、現富田林・河内長野市か?
・大伴村(おおとものむら)
富田林市北・南大伴
・収縛(しゅうばく)
罪人などを捕らえて縛ること
下百済河田村(しもつくだらのかわたのむら)
富田林市甲田か?
・推問(すいもん)
問いただすこと。特に地味を取り調べること
・伏罪(ふくざい)
罪を認めて、刑に服すこと
・獄(ひとや)
牢獄
・眷属(やから)
=けんぞく・親族、同族。従者、配下、家子、所従等の奴隷身分の者
・姫島
大阪府西淀川区姫島町
・漂泊(ひょうはく)
流れただようこと



(感想)


(敏達天皇12年)

天皇は、
贄子大連、糠手子連に詔して、

小郡の西のほとりの丘の前に
日羅の遺体を収め葬りました。

その妻子、船の乗り手らを、
石川に居させました。

この時に、
大伴糠手子連が議って、
「一処に集めておきますと、

恐らくは、
反逆が生じるかもしれません」
といいました。

そこで、
妻子を石川の百済村に居らせ、

船の乗り手ら
石川の大伴村に居させました。

徳爾らを捕らえて縛り、
下百済の河田村に置きました。

複数の大夫を派遣して、
その事件を問いただしました。

徳爾らは罪を認めて、
「これは、真実です。

恩率、参官が教えさせたのです。

私どもは、
人の下であり、

無理に背くことができません」
といいました。

そこで
徳爾らを牢獄に下し、
朝廷に復命しました。

その時、
葦北に使者を派遣して、

悉く、
日羅の同族らを召して、

徳爾等を与えて、
思う存分に、
罪を決めさせました。 

この時、
葦北君らは、
受けとって、
皆、殺し、彌売島に投げ棄てました。

(彌売島はおそらく、姫島です)

日羅を葦北に移して、
葬りました。

後になって、
海の畔の者が、
「恩率の船は、
風をうけて、海に没した。

参官の船は対馬に漂泊し、

すなわち、
始めて帰ることができた」
といいました。

暗殺に関わった、
徳爾らですが、

彼らの言い分を聞くと、
自分たちは、
低い身分で、
上の者に逆らえなかった、と。

難しい。

暗殺を実行すれば、
朝廷に罰せられる。

暗殺を実行しなければ、
本国での立場が危うい。

結果、
悲しいかな、
処刑されてしまいました。

対して、
主犯格の恩率の船は、沈没し、
参官の船は、対馬で漂泊。

因果応報ですね。

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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