天皇陵の変化
近現代の天皇陵は、
上円下方墳の形で築かれます。
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陵とは、
元来「大きな丘」(丘陵)ですが、
「帝王の墳墓は山の如く陵の如し」
(令義解(りょうのぎげ)といわれ、
山陵=墳墓の意に用います。
皇室典範では、
天皇と皇后、太皇太后、皇太后を
葬る所を「陵」、
それ以外を「墓」と呼んでいます。
7世紀ごろまでは、
仁徳天皇陵のような
巨大陵墓も築かれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/03/260208b94a3db722ff00b1d95267cb7d.jpg)
仁徳天皇陵
出典:Wikipedia
ところが、
8世紀以降、
仏式火葬の普及により
天皇陵も小さな墳墓から
石塔などが多くなりました。
しかし、
江戸前期の後光明天皇から
儒葬・神葬への志向が強くなり、
幕末の孝明天皇から
円墳の陵が復興されたのです。
それをうけて、
明治天皇・昭憲皇太后の両陵も、
京都の伏見桃山に
上円下方墳の形で造られました。
大正15年(1926)公布の
「皇室陵墓令」でも
「陵形は、上円下方または円丘」
と定められています。
そこで、
大正天皇・貞明皇后
および昭和天皇・香淳皇后の四陵も、
東京・八王子市に
上円下方墳で築かれました。
いずれも神式の土葬です。
皇后陵は、
天皇陵の東脇に並び、
同形ですが少し小さいものとなります。
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武藏野陵(むさしののみささぎ)
出典:Wikipedia
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/1d/b49af8c6444d41ae9d5d13f19f79ee4c.jpg)
武藏野東陵(むさしののひがしのみささぎ)
出典:Wikipedia
現在、
陵墓の管理は、
宮内庁書陵(しょりょう)部の
陵墓課が担当しています。
また、
皇族の豊島岡墓地も所管しています。
感想
天皇陵を一度も
拝礼したことがありません。
すみません😅
お写真で拝見すると、
仁徳天皇陵、
大きいですね😳
以前は、
古墳を作る際、
ピラミッド建設の様に
無理矢理働かされてたと、
イメージしていたのですが。
とある動画で、
ザッと要略すると、
田んぼを作ると水が必要になる。
そのために用水路や灌漑を作る。
その掘って余った土を一ヶ所に集めた。
そうしたら山が出来た。
そこで、
その山にリーダーのお墓を作ろう!
で、古墳になった。
仁徳天皇の時代、
開拓が進み、
用水路をいっぱい作ったら
余った土が沢山出来た。
だから、
仁徳天皇陵は大きくなった。
古墳が作られなくなったのは、
開拓が進み用水路を作らなくなったから。
って、説を唱える方がいて
かなり納得したことを思い出しました。
確かに、
田舎に行くと、
田んぼの側に小さい山があって
それが林や森になり、
そこに、
神様を祀り神社を作ったり、
または、
祖先の墓があったりしました。
あれのデカイバージョンが
古墳。
アハハ。
この説を聞いたら
他の説が
頭に入って来なくなりました😅
皆さんは、
どう思います?
しかし、
近現代の天皇陵・上円下方墳も
大きいですね。
一度、拝礼して見たいものです。
本日は、これで。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。