リートリンの覚書

天皇とは? 新嘗祭


新嘗祭
(にいなめさい)


11月23日

天皇陛下が、
神嘉殿において

新穀を皇祖、神々にお供えになり、
神恩を感謝された後、
陛下自らもお召し上がりになる祭典。

宮中恒例祭典の中の最も重要なものです。
天皇陛下自らご栽培になった新穀も
お供えになります。

平成最後の新嘗祭
出典:宮内庁

新嘗祭について


新嘗祭とは、
天皇陛下が神嘉殿で新穀を、
天照大神はじめ神々に自らお供えになり、

神恩に感謝され、
そのあと陛下自らも召し上がる祭祀です。

午後6時からの夕(よい)の儀と、
午後11時からの暁(あかつき)の儀
あります。

神前には、
日本全国の都道府県で
収穫された精米一升と
精粟五合のほか、
陛下みずから皇居内で栽培し収穫された
新穀も供えられます。

供食をするニイナエの歴史は古く、
弥生時代末期から
古墳時代前期にかけての集落遺跡、
「纏向遺跡」でも
ニイナエが行われていた
可能性が高いと言われています。

また、
新嘗祭祀の歴史は大変古く、
「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」、
「日本書紀」、
「万葉集」にも書かれています。

しかし、
その後は幾度となく中断し、
桜町天皇の元文4年(1739)に再興され、
以後は現在まで途絶えることなく
続いています。

当日は
午前中に神嘉殿内が整えられ、

午後には、
まず神を迎える降神の儀が執り行われます。

神嘉殿には平素時、
神は不在で、
新嘗祭のときだけ降臨していただくのです。

夕刻になり、
天皇陛下が綾綺殿にお入りになられ、
御祭服にお召し替えになります。

そして平安初期、
嵯峨天皇の御代に定められた通り、
御幘(おんさく)、
御斎衣(おんさいい)、
御下襲(おんしたがさね)、
御衵(おんあこめ)、
御単(おんひとえ)、
御表袴(おんうえのはかま)、
御大口(おんおおくち)、
御石帯(おんせきたい)、
御襪(おんしとうず)
をお召しになります。

同じ頃、
皇太子殿下も東宮便殿に入られ、
斎服(冠、白袍、白単、白袴)に
着替えられます。

参列者が式部官の先導のもと
前庭の幄舎に入りますと、
掌典長が所定の位置について
祝詞を奏上します。 

それが終わりますと、
天皇陛下がお出ましになられます。

陛下が神嘉殿の正殿の御座にお着きになると、

普段は御所の寝室の側、
剣璽の間に安置されている
剣璽(剣と勾玉)を、
侍従が捧げもって
天皇のおそばの
案上(あんじょう・机)に安置します。

ついで皇太子殿下も着座され、
東宮侍従が皇太子の守り刀である
壺切御剣を同じように案上に安置します。

次に、
掌典や采女らにより、
神饌として、
御米飯、
御粟飯をいれた御飯筥(おものばこ)
鮮物筥(なまものばこ・調理した鮮魚)、
干物筥(からものばこ・乾魚)、
御菓子筥(おこのみばこ・果物)が、
天皇陛下のお側に運ばれます。

やがて、
神楽舎で神楽歌が始まると、

天皇陛下が神座の前へ進まれ、
その御飯筥以下の筥のなかの神饌を、
自ら竹製の御箸で次々と
御枚手(おんひらで・器)に
盛り付けて供されます。

その間、
皇太子殿下は隔殿の座で
正座されたままでいらっしゃります。

正殿に入れるのは
天皇陛下と陪膳(はいぜん)采女、
後取(しんどり)采女だけで、

皇太子殿下はその座からは
直接正殿の天皇陛下の所作は
いっさい御覧になれません。

天皇自らが供えられる
御親供(ごしんく)は
昔からのしきたり通りに行われ、
約二時間を要します。

それが終わると、拝礼され、
御告文を奏されたあと、
今度は御米飯、御粟飯、
白酒(しろき)、黒酒(くろき)
召し上がります。

天皇陛下は、
神と食事をともにされるのです。

その間に皇太子殿下が御座を立たれ、
正殿正面の外側で拝礼されると、

続いて各皇族はじめ参列者が
正面の庭から拝礼されます。
これが夕の儀です。

暁の儀は午後11時から
まったく同じ所作で行われ、
すべてが終わるのは
24日の午前1時を
過ぎる頃になります。

宮中では祭祀の所作について
練習することを習礼(しゆらい)といいます。

天皇陛下は11月初旬から、
ご公務の合間をぬい、
新嘗祭のための御習礼をされます。

大嘗祭(だいじょうさい)と呼ばれるが、
上皇陛下は、
この時じつに6回も御習礼されています。

そのうちの最後の1回は、
完成前の大嘗宮の中で行われており、
御習礼といえども
決して揺るがせにならないことが
よくわかります。


感想

新嘗祭、
宮中祭祀の中で
最も重要なものといわれています。

しかし、
謎が多い祭祀ですね。

まずは、
祭祀を行う場所、神嘉殿です。

素直な感想は…
宮中三殿って立派なお社があるのに
なんで、わざわざ神嘉殿でやるん?
賢所と神殿で行えばええやん。
です。

(エセ関西弁ですみません😅もう一人の自分の声です)

しかも、
神嘉殿は普段、神は不在
新嘗祭のときだけ降神の儀を行い
降臨していただく、とのこと。

新嘗祭を行う為だけの神嘉殿。
(この辺は、調べた範囲で感想述べています。
もしかすると、別の祭祀も行われているかも)

となりのお社からわざわざ
お越し頂かなくても、
こちらから祀られているお社に
行ったらええやん。

また、謎な点は、

夕の儀暁の儀
2度の直会があること。

別に一回でええんちゃう。
皆いっぺんに来てもらって
大宴会した方が盛り上がるやろ。

本当に不思議です。

大嘗祭を調べてた際には、
悠紀殿の儀は、天津神・天照大神ために。
主基殿の儀は、国津神のために
行われていると考えていましたが。

新嘗祭を調べてみるとその考えにも疑問が…

もしかすると、
賢所にも神殿にも祀られていない
尊い神様、一柱が。
一年に一度、
神嘉殿にいらっしゃるのでは?

夕の儀は、歓迎としての儀式。
暁の儀は、お帰りいただく儀式では?

という考えが思い浮かびましたよ。

そして大嘗祭は、
その神様と新しい天皇と
初めてお会いする儀式では?

その神様に認めてられて
初めて天皇になれるのでは?

その尊い神様とは?いったい…

一見、
無駄があると感じることが点が多い、
新嘗祭。

そこまでするということは、
本当に大切な祭祀であることが
うかがいしれますね。

さて、
ここで問題になっている
女性天皇について考えてみたいと思います。

新嘗祭、
準備にかなりの手間と時間がかかる
祭祀と思われます。

そんな祭祀に
女性天皇が
神道で忌とされる生理になったら。

延期にするの?
中止にしちゃうの?
神様怒ったりしない?

新嘗祭にいらっしゃる神様が
旧約聖書のような神様だったら…
(主は怒らせたら怖いよ…
大洪水ザッパ〜ンとか、町ドッカーンとか)
:(;゙゚'ω゚'):

また、女系天皇?についても
考えてみたいと思います。

女系天皇を許したら
ずっと神武天皇の遺伝子で続いた
天皇が終わります。

それって、大丈夫なの?

神武天皇の血筋にこだわってきた理由。

そのヒントは、
日本書紀 巻第五 崇神天皇の条
に書かれています。

崇神天皇の御代。
国内に疫病が流行し民の半分が亡くなった。生き残った民は逃亡し、または背いた。それらを徳でしずめるのは難しい。そこで、倭迹迹日百襲姫尊に占わせたところ、尊に大物主神が神懸かりして、「私を大事に祀れば平安になる」と言いました。そこで、教えられた通り大物主神を手厚く祀ったが、いっこうにおさまらなかった。そこでもう一度大物主神に問うたところ、
「オオタタネコを祭主とし、私を祀りなさい」とおっしゃった。そこで、崇神天皇はオオタタネコを探し出し、大物主神を祀らせたところ。
国内は平安になり、五穀豊穣となった。

オオタタネコは
大物主神の子孫または子だと言われています。

この条でわかること。
それは、神様は祭主を選ぶということです。

神武天皇は
日本列島にいらっしゃる尊い神様に
祭主に選ばれ、
そして祀ることを許された人物
ではないかと思うのです。

日本列島で唯一
その神様を祀ることができる、
神武天皇の遺伝子を持つ人たち。

天皇家。

そのことを先人たちは、
知っていたからこそ
神武天皇の血筋が途絶えそうになった時、
必死になって血筋を探し出し、
守り続けたのではないかと思います。

だからこそ、
度重なる存続の危機にあっても
二千年以上続いてきたのでは?

それを踏まえて、
神様に許されていない人物が
国民の代表となり祈りを捧げても
それは、通じるのでしょうか?

日本列島にいらっしゃる尊い神様に
選ばれた方の子孫、
天皇陛下が国民の代表として
祈りを捧げてくださるからこそ。

日本国が長きに渡り
存続できたのだと自分は思います。

新嘗祭の秘儀は、
天皇陛下とそのあとを継ぐ方のみ
口伝で伝えられるので、
以上のことは、
自分の想像でしかありませんが、

皆さんは、どう思われます?

今一度、
女性天皇、女系天皇大丈夫なの?
天皇とは?考えてみませんか。

今日は、かなり厨二な文章ですみません😅

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。


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