リートリンの覚書

日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 二 ・雄略天皇、兄・八釣白彦皇子を疑う ・雄略天皇、兄・坂合黒彦皇子を疑う ・眉輪王に劾する ・坂合黒彦皇子・眉輪王、逃亡 ・圓大臣、二人を匿う ・討伐



日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 二

・雄略天皇、兄・八釣白彦皇子を疑う
・雄略天皇、兄・坂合黒彦皇子を疑う
・眉輪王に劾する
・坂合黒彦皇子・眉輪王、逃亡
・圓大臣、二人を匿う
・討伐



この日、
大舎人(おおとねり)(姓字を欠く)
驟(はし)りきて天皇に、
「穴穂天皇が眉輪王のために殺されました」
といいました。

天皇は大いに驚いて、

即ち、
兄等を猜(うたが)い、

甲を被り、
刀を帯びて、
自ら兵卒の将となり、

八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)に
逼(せま)って問いました。

皇子はその害そうと欲しているのを見て、
黙って坐りものを言いませんでした。

天皇は乃ち、
刀を抜いて、
斬りました。

更に、
坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)に
逼(せま)って問いました。

皇子もまた、
害そうとしているのを知って、
黙って坐りものを言いませんでした。

天皇の憤怒(ふんど)にみちて
盛んになりました。

乃ち、
併せて眉輪王を殺そうと欲して、
劾(がい)し、
所由(しょゆう)を案じました。

眉輪王は、
「臣は、
元より天位を求めていません。

唯、
父の仇を報いただけです」
といいました。

坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、
密かに眉輪王に語り、
遂に共に間を得て、
出て圓大臣(つぶらのおおおみ)の宅(いえ)
に逃げ込みました。

天皇は使をつかわして、
乞いました。

大臣は、
使をもって報いて、
「およそ、
『人臣(じんしん)が事あるとき、
逃げて王室に入る』
と聞いています。

しかし君王が臣の舎(いえ)に
隠匿(かく)れるのを見たことがありません。

方今(ほうこん)、
坂合黒彦皇子と眉輪王とが、

深く臣(わたしめ)の心を恃(たの)み、
臣の舎(いえ)に来ました。

どうして忍び送り出すことができましょうか」
といいました。

これによって、天皇は、
ふたたびもっと多くの兵を興し、
大臣の宅を囲みました。

大臣は庭に出て立ち、
脚帯(あゆい)をもとめました。

時に大臣の妻が、
脚帯を持って来て、
愴(かな)しみ、
心傷つけて歌って、

臣の子は
楮(こうぞ)の栲を 七重は着し
庭に立たせて
脚帯を撫でています

大臣は装束を已に終え、
軍門に進み跪(ひざまず)いて拝して、
「臣は戮(ころ)されたとしても、
敢えて命を聴くことはありません。

古の人が云っています、
『匹夫(ひっぷ)の志を奪うことは
難しいと。』

このことはまさに臣のことです。

大君。
臣の娘、韓媛と葛城の宅七区を奉献して、
贖罪(しょくざい)とし、
伏して請い願います」
といいました。

天皇は許さず、
火をつけ宅を焼きました。

ここに大臣と黒彦皇子と眉輪王はともに、
焼かれ死しました。

時に、
坂合部連贄宿禰
(さかあいべのむらじにえのすくね)
皇子の屍を抱いて、
焼かれ死しにました。

その舎人ら(名を欠く)は、
焼かれた所を取り収めましたが、

遂に骨を擇(えら)ぶのが難しく、
一つ棺に盛り、

新漢(いまきのあや)の
ツキの本の南の丘に合葬しました。

(ツキの字は未詳。あるいはこれは槻か)



・憤怒(ふんど)
大いに怒ること
・劾(がい)
罪をあばきうったえること。取り調べて罪を明らかにすること
・所由(しょゆう)
由来するところ。ゆえん
・人臣(じんしん)
臣下
・方今(ほうこん)
ちょうど今、現在
・匹夫(ひっぷ)
身分の低い男。また道理をわきまえない卑しい男
・贖罪(しょくざい)
犯した罪をつぐなうこと



(感想)

この日、
大舎人が走りきて天皇に、
「穴穂天皇が眉輪王によって殺されました」
といいました。

天皇は大いに驚いて、

即ち、
兄等を疑い、

鎧を被り、
刀を帯びて、
自ら兵卒の将軍となり、

八釣白彦皇子に迫り問いました。

皇子は殺意を感じ、
黙って坐りものを言いませんでした。

天皇はそこで、
刀を抜いて、斬りました。

黙示とは…

雄略天皇の殺意にびびって
黙っていた?

でも、
命を守るために、
無実なら弁明すると思うのですが…

やはり、
八釣白彦皇子は暗殺に関わっていた?

更に、
坂合黒彦皇子に迫り問いました。

皇子もまた、殺意を知って、
黙って坐りものを言いませんでした。

私が皇子の立場なら、
たとえ強い殺意を感じても、
無実であるなら、
必死に説明します。

黙示するということは、
坂合黒彦皇子も
暗殺に関与していた可能性が高いですね。

天皇の怒りに満ち満ちて。
そこで、併せて眉輪王も殺そうと思い、
取り調べて罪のゆえんを思案しました

眉輪王は、
「私は、元より天位を求めていません。
唯、父の仇を報いただけです」
といいました。

坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、
密かに眉輪王に語り、

ついに隙をみて共にその場を逃げ出し、

入圓大臣の屋敷に逃げ込みました。

逃げ出すとは…無謀ですね。
火に油を注ぐ行為。

天皇は使をつかわして、乞いました。

大臣は、
使をもって報いて、
「およそ、臣下が事あるとき、
逃げて王室に入る、と聞いています。

しかし君王が臣の屋敷に隠れるのを
見たことがありません。

ちょうど今、
坂合黒彦皇子と眉輪王とが、

深く私の心を頼りに、
私の家に来ました。

どうして忍び送り出すことが
できましょうか」
といいました。

これによって、
天皇は、

ふたたびもっと多くの兵を興し、
大臣の宅を囲みました。

大臣は庭に出て立ち、
脚帯をもとめました。

時に大臣の妻が、
脚帯を持って来て、
悲しみ、心を傷つけて歌って、

臣の子は
楮の栲を 七重は着し
庭に立たせて
脚帯を撫でています

大臣は装束を整え終え、
軍門に進み跪いて拝して、
「私はたとえ殺されたとしても、
無理に命を聞くことはできません。

古の人が云っています、
身分の低い男の志でも奪うことは難しいと。
このことはまさに私のことです。

大君。

私の娘、韓媛と葛城の宅七区を奉献して、
罪の代償とします。伏して請い願います」
といいました。

しかし、
天皇は許さず、
火をつけ宅を焼きました。

ここに大臣と黒彦皇子と眉輪王はともに、
焼かれ死しました。

時に、
坂合部連贄宿禰は、
皇子の屍を抱いて、
焼かれ死にました。

その舎人らは、
焼かれた所を取り収めましたが、

遂に骨を選別するのが難しく、
一つ棺に盛り、

新漢のツキの本の南の丘に合葬しました。

原文ではツキの字は、
木の部首に疑という字が使われています。
無理矢理に表現すると、
木疑、こんな漢字。
どうしても
この漢字が見つかりませんでした。
カタカナで失礼します。

さて、
幼い子が、義父を殺害。

どう考えても、
それを手助けした人間が周りに居た、
と考えるのが妥当でしょう。

すぐに、兄たちを疑った、
となると、
普段から天皇賞位を狙ったと考えられますね。

でも、
私的には一番怪しいと思う人物は、
眉輪王の母、
中蒂姫命(なかしひめのみこと)。

しかし、
遠い昔の出来事。
真相は闇の中。

でも、
兄弟で争うとは…
悲しいことですね。

今後、
雄略天皇はどのように生きるのか?

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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