リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 八 ・百済の朝貢 ・新羅の朝貢 ・皇后の薨去



日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 八

・百済の朝貢
・新羅の朝貢
・皇后の薨去



二月一日、
馬子宿禰大臣
(うまこのすくねのおおおみ)が、
京師(みやこ)に還り、
屯倉のことを復命しました。

乙丑(きのとうし)、
百済が遣使(つかわしめ)して、
調を進(たてまつ)りました。

恒の歳より益々多くありました。

天皇は、
新羅がまだ任那を建てないので、
皇子と大臣とに詔して、
「任那の事を怠ることなかれ」
といいました。

夏四月六日、
吉士金子(きしかね)を使いとし
新羅に遣わしました。

吉士木蓮子(きしのいたび)
任那に使いました。

吉士訳語彦(きしおさひこ)
百済に使いさせました。

六月、
新羅が遣使して、
調を進(たてまつ)りました。

常の例より益々多くありました。

併せて
多々羅(たたら)、
須奈羅(すなら)、
和陀(わだ)、
発鬼(ほちき)
四つの邑の調を進(たてまつ)りました。

この歳、
卜者(うらべ)に命じて、

海部王(あまのおおきみ)の地と
糸井王(いといのおおきみ)の地とを
占わせました。

卜は重ねて吉と出ました。

遂に、
宮を訳語田(おさた)に営みました。

これを
幸玉宮(さきたまのみや)
といいます。

冬十一月、
皇后・広姫が薨じました。



(感想)

(敏達天皇4年)
2月1日、
馬子宿禰大臣が、
みやこに還り、
屯倉のことを報告しました。

乙丑(きのとうし・三月十一日か?)、

百済が使者を派遣して、
調を献上しました。

いつもの歳より、
はるかに多くありました。

天皇は、
新羅がまだ任那を建てないので、
皇子と大臣とに詔して、

「任那の事は、
面倒がらず、
気を抜き怠るな」
といいました。

夏4月6日、
吉士金子を使者とし
新羅に派遣しました。

吉士木蓮子を使者として、
任那におくりました。

吉士訳語彦を使者として、
百済におくりました。

6月、
新羅が使者を派遣して、
調を献上しました。

常の例より、
はるかに多くありました。

併せて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼、
四つの邑の調を献上しました。

この歳、
占師に命じて、
海部王の地と糸井王の地とを
占わせました。

占いは重ねて吉と出ました。

そこで、
宮を訳語田に営みました。

これを幸玉宮といいます。

冬11月、
皇后・広姫が薨去しました。

明日に続きます。

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ありがとうございました。


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