リートリンの覚書

日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十五


日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十五

・荒陵のくぬぎ
・呉国と高麗国の朝貢
・白鳥陵守
・大井河の大樹
・額田大中彦皇子と氷室
・飛騨の宿儺



五十八年夏五月、
荒陵(あらはか)の松林の南の道で、
たちまちのうちに
二本の歴木(くぬぎ)が生じました。
路をはさんで末は合わさっていました。

冬十月、
呉国、高麗国が、並びに朝貢しました。

六十年冬十月、
白鳥陵守(はかもり)らを指名して、
役丁(えよほろ)に充てました。

時に、
天皇は自ら役(えだち)
ところへ臨みました。

このとき陵守の目桙(めき)が、
忽然と白鹿に化して走りました。

ここにおいて、
天皇は詔して、
「この陵はもとから空であった。
それでその陵守をやめようとして、
はじめて役丁に指名した。

いまこの怪を見ると、
はなはだおそれおおい。
陵守の者を動かしてはならぬ」
といいました。

そこでまた、
土師連(はじ)等に授けました。

六十二年夏五月、
遠江(とおつおうみ)の国司が奏上して、
「大樹があり、
大井河より流れて、
川の曲り角に停まりました。

その大きさは十囲(うだき)で、
(もと)は一つで
末は二つにわかれています」
といいました。

時に、
倭直吾子籠を遣わして船を造らせました。

そして南海より運び、
難波津にひいて来て、
御船(みふね)にあてました。

この歳、
額田大中彦皇子
(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が、
闘雞(つげ)で猟をしました。

皇子は山の上から望んで、
野の中を見ると物がありました。

その形は廬(いおり)のようでした。
すぐに使者を遣わして見させました。

還ってきて、
「窟(むろ)です」
といいました。

そこで
闘鶏稲置大山主(つげのいなきおおやまぬし)
を呼び問いました。
「かの野中にあるのは、なんの窟だ」

答えて、
「氷室(ひむろ)です」
といいました。

皇子は、
「どういうふうに蔵(おさ)めているのか。
またなににつかうのだ」
といいました。

「土を一丈余り掘ります。
草でその上をおおいます。
厚く茅(かや)、薄(すすき)を敷いて、
その上に氷を取って置きます。

夏の月を経て消えません。
用い方は、
熱い月には水や酒に漬けて用います」
といいました。

皇子はその氷を持ってきて、
御所に献じました。
天皇は喜びました。

これをもって以後、
毎年季冬(しわす)になると、
かならず氷を蔵めました。

春分(きさらぎ)に至ると、
始めて氷を散じました。

六十五年、
飛騨の国に一人の人がいました。
宿儺(すくな)といいました。

その人となりは一つの體(たい)に、
二つの顔があり、
顔が各々反対側を向いていました。

頂は合して項(うなじ)がありませんでした。
それぞれ手足があり、
膝はありますが膕踵(よぼろくぼ)
ありませんでした。

大力で軽捷で、
左右に剣を帯び、
四つの手で二つの弓矢を用しました。

そこで皇命にしたがわず、
人民を略奪するのを楽しんでいました。

和珥(わに)臣の祖の
難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)
を遣わして、
殺しました。



荒陵(あらはか)
大阪市四天王寺辺
・役丁(えよほろ)
公の労役に服するため、諸国から徴集されて上京した成年男子
・囲(うだき)
囲は三尺=一メートル弱
・闘雞(つげ)
奈良県都祁村
・季冬(しわす)
十二月
・飛騨
岐阜県北部
・體(たい)
からだ
・膕踵(よぼろくぼ)
膕(よほろ)膝の裏のくぼんだところ。踵(くびす)かかと



(感想)

仁徳天皇58年夏5月、
荒陵の松林の南の道で、
たちまちのうちに
二本のクヌギが生えてきました。
路をはさんで末は合わさっていました。

冬10月、
呉国、高麗国が、並びに朝貢しました。

仁徳天皇60年冬10月、
白鳥陵守らを指名して、
公の労役に服する者に充てました。

その時に、
天皇は自ら役(えだち)のところへ
臨みました。

この時、
陵守の目桙(めき)が、
忽然と白鹿に化して走りました。

ここにおいて、
天皇は詔して、
「この陵はもとから空であった。
そこでその陵守をやめようと思い、
役丁に指名したのだが。

今この怪異を見ると、
大変畏れ多い。
陵守の者を動かしてはいけない」
といいました。

そこでまた、
土師連等に授けました。

仁徳天皇62年夏5月、
遠江の国司が奏上して、
「大樹があり、大井河より流れて、
川の曲り角に停まりました。

その大きさは十囲で、
根元は一つで末は二つに分かれています」
といいました。

そこで、
倭直吾子籠を遣わして船を造らせました。

そして南海より運び、
難波津にひいて来て、
御船にあてました。

この歳、
額田の大中彦皇子が、
闘雞で狩りをしました。

皇子は山の上から望んで、
野の中を見ると、
ある物がありました。

その形は廬のようでした。
すぐに使者を遣わして観察させました。

還ってきて、
「窟(むろ)のようです」
といいました。

そこで闘雞の稲置大山主を呼び、
問いました。
「かの野中にあるのは、なんの窟だ」

答えて、
「氷室です」
といいました。

皇子は、
「どういうふうに納めているのだ。
また何に使うのだ」
といいました。

「土を一丈余り掘ります。
草でその表面を覆います。
厚く茅、薄を敷いて、
その上に氷を取ってきて置きます。
夏になっても消えません。

用い方は、
熱い月には水や酒に漬けて用います」
といいました。

皇子は、
その氷を持ってきて、
御所に献上しました。

天皇は喜びました。

これをもって以後、
毎年季冬になると、
かならず氷を蔵めました。

春分に至ると、始めて氷を散じました。

仁徳天皇65年、
飛騨の国に一人の人がいました。
宿儺といいました。

その人となりは一つの体に、
二つの顔があり、

顔が各々反対側を向いていました。
頂は合体してうなじがありませんでした。

それぞれに手足があり、
膝はありますが
膝の裏のくぼんだところと
かかとがありませんでした。

大変、力が強く軽捷で、
左右に剣を帯び、
四つの手で二つの弓矢を用しました。

そこで皇命にしたがわず、
人民を略奪するのを楽しんでいました。

和珥臣の祖の難波根子武振熊を遣わして、
殺しました。

明日に続きます。
読んで頂き
ありがとうございました。


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