リートリンの覚書

日本書紀 巻第十八 武小広国押盾天皇 三 ・大伴磐と狭手彦、任那と百済を救う ・宣化天皇、崩御



日本書紀 巻第十八 武小広国押盾天皇 三

・大伴磐と狭手彦、任那と百済を救う
・宣化天皇、崩御



二年冬十月一日、
天皇は、
新羅が任那に寇(あだ)したので、
大伴金村大連
(おおとものかなむらのおおむらじ)
に詔して、

その子、
磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)とを
遣わして、
任那を助けました。

このとき、
磐は、筑紫に留まって、
その国の政を執って、
三韓に備えました。

狭手彦は、
往き任那を鎮め、
加えて百済を救いました。

四年春二月十日、
天皇は、
檜隈廬入野宮
(ひのくまのいおりののみや)
で崩じました。

時に年は七十三。

冬十一月十七日、
天皇を大倭国(やまと)の
身狹桃花鳥坂上陵
(むさのつきさかのえのみささぎ)
に葬りました。

皇后・橘皇女とその孺子(ちのみご)を、
この陵に合葬しました。

(皇后の崩年は、伝記に載がない。孺子とは、たぶん成人せずに薨じたのであろうか)



・寇(あだ)
侵略



(感想)

宣化天皇2年冬10月1日、
天皇は、
新羅が任那に侵略したので、
大伴金村大連に詔して、
その子、磐と狭手彦とを派遣して、
任那を助けました。

このとき、
磐は、筑紫に留まり、
その国の政治を執って、
三韓に備えました。

狭手彦は、
往き任那を鎮め、
加えて百済を救いました。

宣化天皇4年2月10日、
天皇は、
檜隈廬入野宮で崩じました。

時に年は七十三歳。

冬11月17日、
天皇を
大倭国の身狭桃花鳥坂上陵に葬りました。

皇后・橘皇女とその孺子を、
この陵に合葬しました。

(皇后の崩年は、伝記に記載がありません。孺子とは、おそらく成人せずに薨じたのでしょう)

本日で、
宣化天皇の条、終了です。

読んで頂き
ありがとうございました。


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