リートリンの覚書

日本書紀 巻第十 譽田天皇 三・厩坂を造る ・各地の海人の騒ぎ ・百済王・辰斯王の無礼 ・枯野 ・近江への行幸 ・韓人池を造る ・百済王・阿花王の無礼


日本書紀 巻第十 譽田天皇 三

・厩坂を造る
・各地の海人の騒ぎ
・百済王・辰斯王の無礼
・枯野
・近江への行幸
・韓人池を造る
・百済王・阿花王の無礼



三年冬十月三日、
東の蝦夷がことごとく朝貢しました。
それで蝦夷を役して、
厩坂(うまやさか)の道を作りました。
 
十一月、
各地の海人(あま)が、
(さばめ)きて命に従いませんでした。

は佐麼賣玖(さばめく)と読みます)

そこで阿曇連(あずみのむらじ)の祖である
大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして、
その(さばめく)をしずめました。
よって海人の宰(みこともち)としました。

俗人(ときのひと)の諺(ことわざ)
「佐麼阿摩(さばあま)」というのは、
これが由縁です。

この年、
百済は辰斯王(しんしおう)が立ち、
貴国(かしこきくに)の天皇に
礼をしませんでした。

故に、
紀角宿禰(きのつののすくね)
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)
石川宿禰(いしかわのすくね)
木菟宿禰(つくのすくね)
を遣わして、
その無礼の状を叱責しました。

すると、
百済国は辰斯王を殺して謝罪しました。
紀角宿禰らは、
阿花(あか)を王に立てて、
帰しました。

五年秋八月十三日、
諸国に令して、
海人(あま)及び
山守部(やまもりべ)を定めました。

冬十月、
伊豆の国に科して、
船を造らせました。

長さ十丈、船が完成しました。
(こころみ)みに海に浮かべました。

軽く浮かび疾行(しっこう)の如く
駆けて行きました。

それで、
その船を枯野(からの)と名づけました。

(船が軽く速いのを理由に、
枯野と名づけたのは、間違っています。
もしかすると軽野(かるの)といったのを、
後の人が訛ったのではないでしょうか)

六年春二月、
天皇は近江の国に幸して、
菟道野の辺に至りて、
歌って、

千の葉のある 葛野(かずの)を見ると
みちたりた 家居も見える
郷土の秀さも見えるよ

七年秋九月、
高麗人(こま)
百済人(くだら)
任那人(みまな)
新羅人(しらき)がそろって来朝しました。

時に、
武内宿禰に命じて、
諸々の韓人等を領(ひき)いて
池を造りました。

故に、
池を名づけて韓人池と呼びました。

八年春三月、
百済人が来朝しました。

(百済記は云う、
阿花王が立って貴国に無礼でした。
それで、
わが枕彌多禮(とむたれ)と峴南(けんなむ)
支侵(ししむ)、谷那(こくな)
東韓(とうかん)の地を奪いました。

そこで王子・直支(トキ)天朝に遣して、
先王の好(よし)みを修めました。)



(さばめく)
上をそしり、訳の分からぬことばを放つこと

・疾行(しっこう)
はやく行くこと、はやく歩くこと

・枕彌多礼(とむられ)
済州島


感想

3年冬10月3日、
東の蝦夷が、
みな朝貢しました。
そこで蝦夷を使役して、
厩坂の道を作りました。

11月、 
各地の海人が、
上を誹り、
訳の分からぬ言葉を放って、
命に従いませんでした。

そこで阿曇連の祖である大浜宿禰を遣わして、
その騒動をしずめました。

よって海人の宰(みこともち)としました。
時の人のことわざに
「佐麼阿摩(さばあま)」
というのは、
これが由縁です。

この年、百済は辰斯王が立ち、
貴国の天皇に礼をしませんでした。

そういうわけで、
紀角宿禰
羽田矢代宿禰
石川宿禰
木菟宿禰
を遣わして、
その無礼の状を叱責しました。

すると、
百済国は辰斯王を殺して謝罪しました。
紀角宿禰らは、
阿花を王に立てて帰国しました。

5年秋8月13日、
諸国に令して、
海人及び山守部を定めました。

冬10月、
伊豆の国に命令して、
船を造らせました。

長さ十丈、船が完成しました。

試みに海に浮かべました。
軽く浮かび疾行の如く駆けて行きました。

それで、
その船を枯野と名づけました。

(船が軽く速いのを理由に、
枯野と名づけたのは、
間違っています。
もしかすると軽野(かるの)といったのを、
後の人が訛ったのではないでしょうか)

 6年春2月、
天皇は近江の国に行幸して、
菟道野の辺に至りて、歌って、

千の葉のある 葛野(かずの)を見ると
みちたりた 家居も見える
郷土の秀さも見えるよ

7年、秋9月、
高麗人、百済人、任那人、新羅人が
そろって来朝しました。

時に、武内宿禰に命じて
諸々の韓人等を率いて池を造りました。

故に、
池を名づけて韓人池と呼びました。

8年春3月、百済人が来朝しました。

(百済記は云う、
阿花王が立ち、貴国に無礼でした。
それで、貴国はわが
枕彌多禮(とむたれ)と峴南(けんなむ)
支侵(ししむ)、谷那(こくな)
東韓(とうかん)の地を奪いました。
そこで王子直支(とき)を天朝に派遣して、
先王の好(よし)みを修めました。)

明日に続きます。

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