リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十六 天豊財重日足姫天皇 九 ・沙門の智喩、指南車を作る



日本書紀 巻第二十六 
天豊財重日足姫天皇 九

・沙門の智喩、指南車を作る



この歲、
越国守
(こしのくにのかみ)の
阿倍引田臣比羅夫
(あへのひけたのおみひらぶ)は、

粛慎(みしはせ)を討って、

生羆(しくま)二頭、
羆の皮七十枚を献(たてまつ)りました。

沙門(ほうし)の智踰(ちゆ)は、
指南車(しなんしゃ)を造りました。

出雲国は、
「北の海の濱に、
魚が死んで積みあがっています。

厚さは三尺あまり。

その大きさは鮐(ふぐ)の如く、
雀のような口、
針のような鱗で、
鱗の長さは数寸。

俗の人は、
『雀が海に入り、
化けて魚になった。
名は雀魚をいいます』
といっています」
といいました。

(或る本は云う、庚申の年の七月に至り、百濟が遣使(つかわしめ)して奏言して、「大唐、新羅は、力をあわせて、我を伐ちました。すでに義慈王(ぎじおう)、王后(こにおるく)、太子(こにきし)をもって虜として去りました」といいました。これによりて、国家は兵士甲卒(いくさびと)をもって、西北の畔に陣を敷き、城柵を修繕し、山川を断ち、塞ぐ、兆しです)

また、
西海使の小花下(しょうかげ)の
阿曇連頰垂(あずみのむらじつらたり)は、
百濟から還り、

「百濟は、
新羅を伐って還りましたが、

この時、
馬が自ずと寺の金堂にいき、
巡りだしました。

晝夜休むことなく、
唯、草を食べる時、
止まりました」
といいました。

(或る本は云う、庚申年に至り、敵のために滅ぼされるきざしであると)



粛慎(みしはせ、あしはせ)
日本古代における,最北地方に居住した人びとに対する呼名、実体は不明
・生羆(しくま)
生きたヒグマ
・指南車(しなんしゃ)
南の方角を指す車



(感想)

(斉明天皇4年)

この歲、
越国守の阿倍引田臣比羅夫は、
粛慎を討って、
生きたヒグマを2頭、
ヒグマの皮を70枚を献上しました。

粛慎(みしはせ、あしはせ)は、
日本古代における,
最北地方に居住した人びとに対する呼名、
実体は不明、

とのこと…

日本に蝦夷以外にも
別の民族が住んでいたということですね。

僧侶の智踰は、
南の方角を指す車を造りました。

出雲国は、
「北の海の浜に、
魚が死んで積み重なっています。

厚さは三尺あまり。

その大きさはフグのようで、
雀のような口、
針のような鱗で、
鱗の長さは数寸あまり。

俗の人は、
『雀が海に入り、
化けて魚になった。
名は雀魚をいいます』
いっています」
といいました。

何の魚でしょうか?
気になります。

調べてみると、

雀魚は、
魚「うみすずめ(海雀)」の異名です。

ウミスズメ(海雀) とは、
フグ目ハコフグ科コンゴウフグ属のフグ。

とのこと。


(或る本は云う、庚申の年の七月に至り、百済が使者を派遣して奏言して、「大唐、新羅は、力をあわせて、我が国を伐ちました。すでに義慈王、王后、太子を虜として連れ去りました」といいました。このことによって国家は兵士を西北の畔に陣を敷き、城柵を修繕し、山川を断ち、塞ぐ兆しです

また、
西海使の小花下の阿曇連頰垂は、
百済から帰国しました。

「百済は、
新羅を伐って還りましたが、
この時、
馬が自ずと寺の金堂に行き、
巡りだしました。

昼夜休むことなく、

唯、
草を食べる時、
止まりました」
といいました。

(或る本は云う、庚申年に至り、百済が敵のために滅ぼされる兆しであると)

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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