リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十八 ・難波吉士木蓮子を新羅に派遣する ・二軀の彌勒の石像 ・蘇我馬子宿禰と三人の尼



日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十八

・難波吉士木蓮子を新羅に派遣する
・二軀の彌勒の石像
・蘇我馬子宿禰と三人の尼



十三年春二月八日、
難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)
新羅に遣使(つかわしめ)しました。
遂に任那に行きました。

秋九月、
百済から来た
鹿深臣(かふかのおみ)(名字を欠く)が、
彌勒(みろく)の石像を
一軀もっていました。

佐伯連(サエキノむらじ)
(名字を欠く)が、
仏像を一軀もっていました。

この歳、
蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)は、
その仏像二軀を請い、

すなわち、
鞍部村主司馬達等
(くらつくりのすぐりしめだちと)、
池辺直氷田
(いけへのあたいひた)
を遣わして、

四方に使い、
修行者を訪ね、
探し求めさせました。

ここにおいて、
ただ播磨国においてだけに、
僧を還俗(げんぞく)した者を得ました。

名は高麗の恵便(えべん)
といいます。

大臣は、
すなわち師としました。

司馬達等の娘、嶋(しま)を
度(いえで)させました。

善信尼(ぜんしんのあま)といいます。
(年、十一歳)

また、
善信尼の弟子二人が度(いえで)しました。

其の一は、
漢人(あやひと)の夜菩(やぼ)の娘、
豊女(とよめ)
名を禅藏尼(ぜんぞうのあま)といいます。

其の二は、
錦織壺(にしこりのつふ)の娘、
石女(いしめ)。
名を惠善尼(えぜんのあま)といいます。

(壺はこれ、都符(つふ)といいます)

馬子は仏法に依って、
三の尼を崇敬しました。



・播磨国(はりまのくに)
兵庫県
・度(いえで)
出家



(感想)

敏達天皇13年春2月8日、
難波吉士木蓮子を
新羅に使者として派遣しました。
遂に任那に行きました。

秋9月、
百済から来た鹿深臣が、
弥勒の石像を一体、持っていました。

佐伯連が、仏像を一体、持っていました。

この歳、
蘇我馬子宿禰は、
その仏像二体を請い求め、

そこで、
鞍部村主司馬達等、
池辺直氷田を派遣して、

使者をあちこちに派遣して、
修行者を訪ね、
探し求めさせました。

ここにおいて、
唯一、
播磨国において、

僧を還俗した者がいました。
名を高麗の恵便といいます。

大臣は、
彼を師としました。

司馬達等の娘、嶋を出家させました。
善信尼といいます。(年、十一歳)

また、
善信尼の弟子二人が出家させました。

その一は、
漢人の夜菩の娘、豊女。
名を禅蔵尼といいます。

その二は、
錦織壺の娘、石女。
名を恵善尼といいます。

馬子は仏法に帰依し、
三の尼を崇敬しました。

11歳の女の子を
出家させるとは…

当の本人は、
どのように思っていたのでしょうか?

納得していたのでしょうか?

なんだかなぁ。

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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