リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 四十一 ・高麗僧の慧慈の誓い



日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 四十一

・高麗僧の慧慈の誓い



この月、
上宮太子(じょうぐうたいし)
磯長陵(しながのみさざき)に葬りました。

この時にあたり、
高麗僧の慧慈(えじ)は、
上宮皇太子が薨(みまか)ったと聞き、

大いに悲しみ、
皇太子のために、
僧に請じて斎(とき)を設けました。

なお、
自らも経を説く日に、
誓い願いて、
「日本国に聖人(ひじり)がある。

上宮豊聡耳皇子
(かみつみやのとよみいのみこ)という。

固く天にゆるされ、
奥深い聖の徳をもって日本国に生まれた。

過去の三統(きみのみち)を貫いて、

先の聖の
宏猷(おおいなるのり)を受け継ぎ、

三宝(さんぽう)を恭敬(きょうけい)し、

黎元(おおみたから)の厄を救った。

これは、
まことの大聖である。

今、
太子はすでに薨ってしまった。

我は、
たとえ国は異なっていても、
金を断つほどの睦ましい心がある。

ひとり生きていっても、
何の益があろうか。

我は、
来年の二月五日をもって、
必ず死に、

これによって上宮太子と浄土で遇い、
共に衆生(しゅじょう)と化そう」
といいました。

ここにおいて、
慧慈は期日に当たり死にました。

ここをもちて、
時の人は彼此共に、
「それ、上宮太子だけが聖なのではなく、
慧慈もまた聖であった」
といいました。

この歳、
新羅は、
奈末伊弥買(まないみばい)を遣わして
朝貢しました。

なお、書を表して使の旨を奏しました。

およそ新羅の上表は、
思うに、
このとき始めて起こりました。



・上宮太子(じょうぐうたいし)
聖徳太子の別名
・磯長陵(しながのみさざき)
大阪府太子町太子、叡福寺境内
・三統(きみのみち)
中国の古代の国・伝説的王
・宏猷(おおいなるのり)
=こうゆう・大きなはかりごと。大きな計画
・三宝(さんぽう)
仏・法・僧
・恭敬(きょうけい)
つつしみ敬うこと。くぎょう。きゅうきょう
・黎元(おおみたから)
=れいげん・人民。庶民。たみ。黎民。黎首
・衆生(しゅじょう)
生命のあるすべてのもの。人間をはじめすべての生物



(感想)


(推古天皇二十九年二月)

この月、
聖徳太子を磯長陵に葬りました。

この時、
高麗僧の慧慈は、
聖徳太子が亡くなったと聞き、

大いに悲しみ、
聖徳太子のために、

僧に請願して、
斎(とき)を設けました。

なお、
自らも経を説く日に、
誓願して、
「日本国に聖人がいます。
上宮豊聡耳皇子といいます。

固く天にゆるされ、
奥深い聖の徳をもって
日本国に生まれました。

先の中国の伝説的王を追い抜いて、

先の聖の大きなはかりごとを受け継ぎ、

仏・法・僧をつつしみ敬い、

庶民の厄災を救いました。

これは、
まことの大聖です。

今、
太子はすでに亡くなってしまいました。

私は、
たとえ国は異なっていても、
金属を断つほどの太子との友情があります。

今後、
ひとり生きていても、
何の益があるでしょうか。

私は、
来年の2月5日をもって、
必ず死に、

これによって、
上宮太子と浄土で再会し、
共に生まれ変わります」
といいました。

ここにおいて、
慧慈は期日に亡くなりました。

こういうわけで、
時の人はかれこれ共に、
「それ、
上宮太子だけが聖人なのではなく、
慧慈もまた聖人であった」
といいました。

聖徳太子と慧慈との友情は
かなり厚いものだったのですね。

…それなのに、
慧慈は何故帰国しちゃったんでしょうか?

帰国せずに、
聖徳太子を支えていたら
歴史は変わっていたかもしれませんね。

『上宮太子と浄土で再会し、
共に生まれ変わります』

本当に、
生まれ変わったとしたら…

今度は、
しっかり支えて欲しいですね。

いつの世も、
聖人は孤独ですから…

この歳、
新羅は、
奈末伊弥買を派遣して朝貢しました。

なお、書を上表して使の旨を奏しました。
およそ新羅の上表は、
思うに、このとき始めて起こりました。

この年、
初めて上表したと…

新羅と日本の付き合いは、
かなり長いのにね…

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本書紀・現代語訳」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事