リートリンの覚書

日本書紀 巻第十一に登場する人物 2 ・宿禰臣 ・玖賀媛 ・速待 ・鳥山 ・口持臣 ・国依媛


日本書紀 巻第十一に登場する人物 2

・宿禰臣
・玖賀媛
・速待
・鳥山
・口持臣
・国依媛


宿禰心
(すくねのおみ)


小泊瀬造の祖


別名


賢遺臣(さかしのこりのおみ)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“小泊瀬造の祖である宿禰臣に、名を賜い賢遺臣といいました。”

仁徳天皇12年秋7月3日、
高麗国が鉄の盾と鉄の的を献上しました。

8月10日、
高麗の客を招き朝廷で宴会を開きました。

そのとき、群臣及び百寮を集めて、
高麗が献上した鉄の盾、鉄の的を
射させました。

ほとんどの人は的を通すことが
出来ませんでしたが、
唯一、的臣(いくはのおみ)の祖である
盾人宿禰(たたひとのすくね)だけが、
鉄の的を通すことができました。

その時、高麗の客等がこれ見て、
その弓を射ることが勝れ巧みであると
畏れいり、共に起(た)って朝拝しました。

翌日、盾人宿禰をほめて、
的戸田宿禰の名を賜いました。

同日、小泊瀬造(おはつせのみやつこ)の
祖である宿禰臣(すくねのおみ)に、
賢遺臣(さかのこり)の名を賜いました。

仁徳天皇17年、
新羅が朝貢しませんでした。

秋9月、的臣の祖である
砥田宿禰(すくね)、
小泊瀬造の祖である賢遣臣を遣して、
朝貢しなかった事を問わせました。

ここにおいて、新羅人はおそれて、
ただちに貢献しました。
調(つき)の絹千四百六十疋、
それに種々の穀物、あわせて八十艘。


玖賀媛(くがひめ)


宮人


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“十六年秋七月一日、天皇は、宮人の桑田の玖賀媛を、近習の舎人等に見せて、「朕は、この婦女を愛したいと欲うが、皇后の妬を苦にして、合できず、多くの年を経た。どうしていたずらに、その盛年を妨げることができようか」といい、…”

仁徳天皇16年秋7月1日、
天皇は宮人(あやひと)の桑田の
玖賀媛を近習の舎人(とねり)等に見せて、
この婦女を愛したいと思っていたが、
皇后の嫉妬を苦にして、
多くの年を経て、
その盛年を妨げてしまっている。
誰か養ってほしいといいました。

そこで播磨の国造の祖、
速待(はやまち)が申し出ました。
早速、玖賀媛を速待に与えました。

翌日の夕、
速待は玖賀媛の家に詣でましたが、
玖賀媛は和まず、
寡婦(やもめ)として年を終えたいと
願い出ました。

そこで、
天皇は速待の思いをとげさせようと考え、
玖賀媛を速待につけて、
桑田に送らましたが、
道中、玖賀媛は発病し
亡くなってしまいました。
今も玖賀媛の墓があります。


速待
(はやまち)


播磨国造の祖


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“ここにおいて、播磨の国造の祖、速待が、ひとり進みて、歌って、”

仁徳天皇16年秋7月1日、
天皇は宮人(あやひと)の
桑田の玖賀媛(くがひめ)を
近習の舎人(とねり)等に見せて、

この婦女を愛したいと思っていたが、
皇后の嫉妬を苦にして、
多くの年を経て、
その盛年を妨げてしまっている。
誰か養ってほしいといいました。

そこで播磨の国造の祖、
速待が申し出ました。

早速、
玖賀媛を速待に与えました。

翌日の夕、
速待は玖賀媛の家に詣でましたが、
玖賀媛は和まず、
寡婦(やもめ)として年を終えたいと
願い出ました。

そこで、天皇は速待の思いを
とげさせようと考え、
玖賀媛を速待につけて、
桑田に送らせましたが、
道中、玖賀媛は
発病しし亡くなってしまいました。
今も玖賀媛の墓があります。


鳥山


舎人


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“時に皇后は、大津に泊まらず、更に引いて、河をさかのぼり、山背から廻りこみ、倭に向かいました。明日、天皇は舎人の鳥山を遣わして、皇后に還ってくるようにうながしました。


仁徳天皇30年9月11日、
皇后は紀国(きのくに)に遊行し、
熊野岬(くまのみさき)に至り、
そこの処の御綱葉(みつなかしわ)を取って還ってきました。

ここで、天皇は皇后の不在を伺い、
八田皇女を娶りました。

皇后は難波済に至り、
天皇が八田皇女と合したと聞いて、
大いに恨みました。

すぐにその採ってきた御綱葉を
海に投げ入れて、
着岸しませんでした。

皇后は、大津に泊まらず、
更に引いて、河をさかのぼり、
山背(やましろ)から廻りこみ、
倭(やまと)に向かいました。

翌日、
天皇は舎人(とねり)の鳥山を遣わして、
皇后に還ってくるようにうながしました。
しかし皇后は、還らず猶も行き、
山背河(木津川)に至り歌いました。

そして、
さらに山背に還って、
宮室を筒城岡(つつきのおか)の南に興し、
そこに居ました。


口持臣(くちもちのおみ)


的臣の祖


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“冬十月一日、的臣の祖、口持臣を遣わして、皇后を呼びました。口持臣は、筒城宮に至て、皇后に一度、謁えましたが、黙って答えませんでした。“

仁徳天皇30年9月11日、
皇后は熊野に行幸しました。
その隙に天皇は
八田皇女と結婚してしまいます。

それを怒った皇后は山背に還って、
宮室を筒城岡(つつきのおか)の南に興し、
そこに居ました。

冬10月1日、
天皇は的臣の祖、口持臣を遣わして、
皇后を呼びました。

口持臣は筒城宮に至て、
皇后に一度、謁見しましたが、
皇后は黙って答えませんでした。

時に、
口持臣は雨雪(ゆきのふる)に濡れ、
日夜を経て、
皇后の殿の前に伏せて、
避けませんでした。

口持臣の妹の国依媛(くによりひめ)は、
皇后に仕えていました。
この時たまたま、
皇后の側に待していました。
その兄が雨に濡れているのを見て、
哀しんで泣き、
歌いました。

時に、皇后は国依媛に話して、
「どうしてお前が泣くのか」
といいました。

答えて、
「今、庭に伏して
請願している謁者(えっしゃ)は
妾の兄です。

雨にぬれ避けようとせず、
猶もひれ伏して謁しようとしています。

これをもって、
泣いて悲しんでいるのです」
といいました。

皇后は話して、
「汝の兄に告げて、
はやく還らせなさい。
吾は返りません」
といいました。

口持臣は、
すぐさま返って、
天皇に復奏(ふくそう)しました。


国依媛(くによりひめ)


口持臣の妹


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“口持臣の妹の国依媛は、皇后に仕えていました。この時たまたま、皇后の側に待していました。その兄が雨に濡れているのを見て、哀しんで泣き、歌いました。”

仁徳天皇30年9月11日、
皇后は熊野に行幸しました。
その隙に天皇は八田皇女と
結婚してしまいます。
それを怒った皇后は山背に還って、
宮室を筒城岡(つつきのおか)の南に興し、
そこに居ました。

冬10月1日、
天皇は、的臣(いくはのおみ)の祖、
口持臣(くちもち)を遣わして、
皇后を呼びました。

口持臣は筒城宮に至て、
皇后に一度、謁見しましたが、
皇后は黙って答えませんでした。

時に、
口持臣は雨雪(ゆきのふる)に濡れ、
日夜を経て、皇后の殿の前に伏せて、
避けませんでした。

口持臣の妹の国依媛は、
皇后に仕えていました。

この時たまたま、
皇后の側に待していました。

その兄が雨に濡れているのを見て、
哀しんで泣き、

歌いました。
時に、皇后は国依媛に話して、
「どうしてお前が泣くのか」
といいました。

答えて、
「今、庭に伏して請願している
謁者(えっしゃ)は妾の兄です。
雨にぬれても避けようとせず、
猶もひれ伏して謁しようとしています。

これをもって、
泣いて悲しんでいるのです」
といいました。

皇后は話して、
「汝の兄に告げて、
はやく還らせなさい。
吾は返りません」
といいました。

口持臣は、
すぐさま返って、
天皇に復奏(ふくそう)しました。


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