リートリンの覚書

日本書紀 巻第十二 去来穂別天皇 七 ・筑紫の三神の怒り ・黥の廃止 ・皇妃の薨去 ・車持部のつみ



日本書紀 巻第十二 去来穂別天皇 七

・筑紫の三神の怒り
・黥の廃止
・皇妃の薨去
・車持部のつみ



五年、春三月一日、
筑紫に居る所の三神が、
宮中にあらわれて、

「何故、我が民を奪ったのか。
吾は今汝に慚(は)じをかかせてやろう」
といいました。

ここにおいて、
祷(いの)りましたが、
祠(まつり)ませんでした。

秋九月十八日、
天皇は淡路島で狩りをしました。

この日、
河内の飼部(うまかいべ)等が従い、
轡(おおみまのくち)を執りました。

これより先に、
飼部の黥(めさきのきず)が、
皆まだ治っていませんでした。

この時、
島に居る伊弉諾神が祝(はふり)に託して、
「血の臭いに堪えられぬ」
といいました。

そこでこれを卜(うらな)うと、
兆しに、
「飼部等の黥の氣が悪(にくむ)」
とでました。

それで、これより以後、
それまで行っていた飼部の黥を止めました。

十九日、
風のような聲(こえ)あり、
大空に呼ばれて、

「剣刀太子王(つるぎたちのひつぎのみこ)」
といいました。

また呼んで、
「鳥の往来(かよ)う 
羽田(はた)の汝妹(なにも)は
羽狭(はさ)に葬立(はふりたち)往く」
といいました。

汝妹これは儺通毛(なにも)といいます

また、
「狭名来田蔣津之命
(さなくたこもつのみこと)
羽狭に葬立されて往く」
といいました。

俄(にわか)に使者が
忽(たちま)ちに来て、
「皇妃が薨(みまか)りました」
といいました。

天皇は大いに驚いて
すぐに帰るための駕(が)をつけるように
命じました。

二十二日、
淡路からつきました。

冬十月十一日、
皇妃を葬りました。

既に天皇は神の祟りを治めず、
皇妃を亡くしたことを悔いて、
更にその咎(とが)を求めました。

ある者が、
「車持君(くるまもちのきみ)が
筑紫国に行き、

悉く車持部を管掌し、

兼ねて充神者(かむべらのたみ)を
取りました。

必ず、この罪でしょう」
といいました。

天皇は則ち、
車持君を喚(よ)び
これを推問(すいもん)しました。

事は既に事実でした。

よって、これを数えて、
「爾は、車持君といえども、
ほしいままに天子の百姓を管掌した。
罪の一つだ。

既に神に分けて寄(おくった)た
車持部を兼ねて奪い取った。
罪の二だ。」
といいました。

則ち、
悪解除(あしはらえ)、
善解除(よしはらえ)を負って、
長渚崎(ながす)に出むかせ、
祓い禊をさせました。

そして詔して、
「今より以後、
筑紫の車持部を
掌(つかさど)ることはできない」
といいました。

乃ちことごとく収めて、
更にこれを分けて三神に奉じました。



・慚(は)
はじ、はじる、恥ずかしいとおもうなどの意味をもつ漢字
・轡(おおみまのくち)
くつわ、手綱
・黥(めさきのきず)
目のふちの入れ墨のきず
・祝(はふり)
神官
・羽狭(はさ)
橿原市大軽町辺のやまか?
・駕(が)
乗り物。馬がひく車やかご
・咎(とが)
あやまち、罰されるべきおこない。つみ
・充神者(かむべらのたみ)
かんべの民。神戸
・推問(すいもん)
問いただすこと。特に罪を取り調べること
・長渚崎(ながす)
尾崎市長州辺



(感想)

履中天皇5年春3月1日、
筑紫に居る三神が、
宮中にあらわれて、
「何故、我が民を奪ったのか。
私は、今お前に恥ををかかせてやろう」
といいました。

ここにおいて、
祈祷しましたが、
祠(まつり)ませんでした。

秋9月18日、
天皇は淡路島で狩りをしました。

この日、
河内の飼部(うまかいべ)等が従い、
手綱をとりました。

これより先に、
飼部の目のふちの入れ墨の傷が、
まだ完治していませんでした。

この時、
島に居る伊弉諾神が、
神官に神託して、
「血の臭いに堪えられぬ」
といいました。

そこでこれを占うと、兆しに、
「飼部等の入れ墨の氣を憎む」
とでました。

それで、これより以後、
それまで行っていた飼部の入れ墨を
止めました。

19日、
風のような聲(こえ)あり、
大空に呼ばれて、
「剣刀太子王」
といいました。

また呼んで、
「鳥の往来(かよ)う 
羽田(はた)の汝妹(なにも)は
羽狭(はさ)に葬立(はふりたち)往く」
といいました。

また、
「狭名来田蔣津之命は 
羽狭に葬立されて往く」
といいました。

急にに使者が忽ちに来て、
「皇妃が薨(みまか)りました」
といいました。

天皇は大いに驚いて
すぐに帰るための乗り物を
つけるように命じました。

22日、
淡路からつきました。

冬10月11日、
皇妃を葬りました。

既に天皇は神の祟りを治めず、
皇妃を亡くしたことを悔いて、
更にそのあやまちが何だったのかを
求めました。

ある者が、
「車持君が筑紫国に行き、
悉く車持部を管掌し、
兼ねて神戸の民を取りました。

必ず、
この罪でしょう」
といいました。

天皇は則ち、
車持君を呼びこれを問いただすと、
事は既に事実でした。

よって、
これを数えて、
「お前は、車持君といえども、
欲しいままに天子の百姓を管掌した。
罪の一つだ。

既に神に分けて贈った車持部を
兼ねて奪い取った。
罪の二だ。
といいました。

則ち、
悪解除(あしはらえ)、
善解除(よしはらえ)を負って、
長渚崎(ながす)に出むかせ、
祓い禊をさせました。

そして詔して、
「今より以後、
筑紫の車持部は掌ることはできない」
といいました。

すぐに、
ことごとく収めて、
更にこれを分けて三神に奉じました。

うーむ。

祟るなら、
罪を犯した車持部を祟ればいいのに。

何故、
罪もない天皇と皇妃を祟ったのか?

宗像の女神…謎。

さて、今日はこの辺で。

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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