リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十七 天命開別天皇 四 ・唐・新羅連合軍、高麗国を伐つ ・豊璋らを百濟国に送る



日本書紀 巻第二十七 
天命開別天皇 四

・唐・新羅連合軍、高麗国を伐つ
・豊璋らを百濟国に送る



元年春正月二十七日、
百濟の佐平(さへい)の
鬼室福信(きしつふくしん)に、

矢を十萬隻、糸を五百斤、
綿を一千斤、布を一千端、
韋(なめしがわ)を一千張、
稲種を三千斛、賜りました。

三月四日、
百濟の王に布を三百端を賜りました。

この月、
唐人、新羅人が高麗を伐ちました。

高麗は、
救いを国家(みかど)に乞いました。

なお、
軍將を遣わして、
䟽留城(そるさし)に
據(よ)りました。

これによりて、
唐人はその南の堺を
略(おか)し得ることができませんでした。

新羅は、
その西の壘(とりで)を
輸(ま)かし獲ることができませんでした。

夏四月、
鼠が馬の尾に産みました。

釋(ほうし)の道顯(どうけん)は、
占いをして、

「北国の人は、
まさに南の国に附(つ)こうとしています。

おもうに高麗が破れ、
日本に属(つ)くのでは」
といいました。

五月、
大將軍の大錦中(だいきんちゅう)の 
阿曇比邏夫連
(あずみのひらぶのむらじ) 等は、

船師(ふないくさ)、
百七十艘を率いて、
豊璋等を百濟国に送りました。

勅(みことのり)を宣べて、
豊璋等をその位を継がせました。

また、
金策(こがねのふみた)を
福信に予(あた)えて、

その背を撫でて、
褒めて爵禄(かうぶりもの)を賜りました。

時に、
豊璋等と福信は稽首(けいしゅ)し、
勅を受けて、

衆はそのため、
流涕(りゅうてい)しました。

六月二十八日、
百濟は、
達率万智(だちそちまち)等を遣わして、
調(みつき)、獻物(けんもつ)を
進めました。



・韋(なめしがわ)
なめしがわ。毛と脂肪を取り除いてやわらかくした動物のかわ
・国家(みかど)
ここでは大和朝廷のこと
・䟽留城(そるさし)
都々岐留山か
・船師(ふないくさ)
海軍
・金策(こがねのふみた)
金で書いた書か、金の札
・爵禄(かうぶりもの)
冠位
・稽首(けいしゅ)
頭を深くたれて地につけること。 うやうやしく礼をすること
・流涕(りゅうてい)
涙を流すこと。泣くこと
・獻物(けんもつ)
神や貴人などにたてまつる品物。 献上品。 献上物



(感想)

元年春1月27日、
百済の佐平の鬼室福信に、

矢を10万隻、糸を500斤、
綿を1000斤、布を1000端、
なめしがわを1000張、
稲種を3000斛、与えました。

3月4日、
百済の王に、
布を300端を与えました。

この月、
唐人、新羅人が高麗を伐ちました。

高麗は救援を大和朝廷に乞いました。

そこで、
軍将を派遣して、
䟽留城に拠りました。

これによって、
唐人はその高麗の南の堺を
侵略することができませんでした。

新羅はその西の砦を
落とすことができませんでした。

夏4月、
鼠が馬の尾に仔を産みました。

法師の道顯は占いをして、

「北国の人は、
まさに南の国をつこうとしています。

おもうに高麗が破れ、
日本につくのでは」
といいました。

5月、
大将軍の大錦中の阿曇比邏夫連らは、
海軍、170艘を率いて、
豊璋らを百済国に送りました。

勅を宣べて、
豊璋らにその王位を継がせました。

また、
金策を福信に与えて、

その背を撫でて、
褒めて冠位を授けました。

時に、
豊璋らと福信は頭を深くたれて地につけ、
うやうやしく礼をし、
勅を受けました。

衆人はそのため、
涙を流しました。

6月28日、
百済は、
達率万智らを派遣して、
調(みつき)、 献上品を献上しました。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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