6月30日に、飛行機で帰省する。
両親が住む近くの空港で、予約していたレンタカーを借りて、両親が住む貸家へ向かう。
家に着いて玄関を開けると、室内は蒸し暑い。
梅雨の真っ最中で、外気温も27度くらいあっただろう。
声をかけて奥の居間に入ると、母が電源を入れたこたつに入って横になっていた。
父がどこかへ行ったがわからないという。
寒気はしないと答える母に、こたつの電気を消して、窓を開けて空気の入れ替えをする。
正月に来たときよりも、家の中が殺伐となっている。
いらないものが、部屋の周りを囲んでいた。
正月に捨てようとゴミ袋に入れた、使わないさびた掃除用洗剤など、床に並べられている。父はゴミを捨てることが不安に思うようだ。もう使わないものも、とりあえず残しておいて、いろいろな物に囲まれて、どこに仕舞ったかわからなくなってずっと怒りながら半日でも探す人だ。
母や私も捨てるタイプで、私たちが捨てるとすぐに拾って元に戻すのが父だった。
TVニュースで、ゴミ屋敷に住む老人の心理は、父と共通する。
まだ、他に捨てられた自転車などを拾ってこない分、ゴミ屋敷となっていないだけだ。
6月30日の午後に来て、7月4日に北海道の私と息子の家に行く予定で、両親の家財の処理と引越し手続きに正味3日間しかない。
前もって、引越し業者には、ネットで見積もり予約をしておいて、翌日から業者が数件やってくる手はずを整えてきた。粗大ゴミ処理業者は、両親の住む町の業者を電話帳で探して見積もり依頼をした。
母と簡単に話をして、部屋を掃除し、洗濯をする。
買い物に出かけ、栄養豊かな食事を作っていると、父がタクシーで帰宅した。
どこに行っていたのか尋ねると、バツが悪そうな笑顔。競艇だったようだ。
タクシーの運転手にお金を払う際、ポケットの中のお金を支払いながら、競艇の紙を沢山落としていた。
ヨレヨレのズボンをはいて、老化した脳で競艇に行く父を、受け入れるしかなかった。50年近く真面目に働いて、定年後は、競艇に夢中になってしまった父。
アルツハイマー病で、会話もおぼつかなくなった母との不便な生活からくるストレス発散に、数年はずっと新聞の競艇欄を見続けていた。
翌日からの引越し手続きの段取りを父に伝え、母にも説明するも、なぜ引越しをするのか不安がる母に、何度も説明する。家族みんなで暮らすんだよ、美味しいものを食べて安心して暮らすんだよと繰り返す。
翌朝から、役所、税金支払い、年金受け取りの銀行担当者にも事情を伝える。両親がそれぞれ通っていた脳外科の医院にも、転居の際の診断書をいただく。アルツハイマーと糖尿が重い母には、特に必要な書類だ。母の正常な状態とこれまでの処置を理解する人がいなければ、転院するにも受け入れが大変だ。
その外回りの合間に、引越し業者を選定し、必要とする荷物をまとめる。
家事をして、両親に食事をしてもらう。
母方の親戚に連絡をして、来ていただく。
みな、母が大好きな兄弟妹だった。久しぶりに皆が集まったので、母は大喜びしていた。その姿を見て、皆さんは目を赤くして対応していた。
叔母に母や私の着物の目利きをしてもらい、母と私の花嫁道具の桐ダンス2棹に収まるような量にしてもらった。
両親の年金で両親は暮らせるかと思ったが、父は年金を担保に借りたお金を競艇につぎこんでいたので、ギリギリの生活だったようだ。しかし、それでも足りず、大家さんに挨拶に行くと、家賃を半年滞納していたので、父に尋ねるとそうだ、払っていないと答える。想定外の支払いや、老化した両親を受け入れるしかなかった。
父は真面目な人だった。定年後は、競艇のばくちにはまったが、人間、いいところも良くない弱いところもあるものだと受け入れた。老化した父を責めても、競艇につぎ込んだお金は戻ってこない。
それよりも、これからは両親に美味しい栄養豊かな食事と安心した生活を送ってもらいたい気持ちが強かった。
「親孝行したいときに、親はなし」という後悔はしたくなかった。それだけだった。
多くはない両親の年金で、これから両親と息子と私の4人で暮らすには、心細いところがあったが、今まで通り、私が一生懸命仕事をして、親孝行して暮らすのであれば、おかしなことにはならないだろうという楽観的な考えでいた。
7月4日に、北海道の私たちの家に行く際の飛行機内では、歩行がおぼつかない母、老化で気弱いいでたちの父を見る周りの目が温かかった。
母が「これからどこへ行くの?」という問いに答える会話を聞いていたのだろう、熟年層の男性女性が、事情を察したらしいように、がんばってねという声をかけてくれた。
私もいろいろな経験からくる、温かい声かけをしてあげたいとふと思う。
空港に預けてあった車に両親を乗せて、そのままこれから住む町の役所に直行した。両親は疲れていたようだったが、翌日以降の雑用を思うと、このまま住民票や福祉の手続きなど、両親を見ていただきながら、私が代行するほうが、早くて簡単に済むと判断したのが、良かった。
母の問答の様子、父の判断能力の低下をすぐに察して、複雑な子供による代行手続きの面倒を省いてくださったのがありがたかった。
夕方帰宅すると、息子と久しぶりの対面で両親はほっとしていたようだったが、疲れているようで、私たちの布団で眠ってもらって、私と息子は、キャンプ用の寝袋でしばらくの間眠った。
明日は、老いた両親と暮らし始めたことを書きます。
感謝
両親が住む近くの空港で、予約していたレンタカーを借りて、両親が住む貸家へ向かう。
家に着いて玄関を開けると、室内は蒸し暑い。
梅雨の真っ最中で、外気温も27度くらいあっただろう。
声をかけて奥の居間に入ると、母が電源を入れたこたつに入って横になっていた。
父がどこかへ行ったがわからないという。
寒気はしないと答える母に、こたつの電気を消して、窓を開けて空気の入れ替えをする。
正月に来たときよりも、家の中が殺伐となっている。
いらないものが、部屋の周りを囲んでいた。
正月に捨てようとゴミ袋に入れた、使わないさびた掃除用洗剤など、床に並べられている。父はゴミを捨てることが不安に思うようだ。もう使わないものも、とりあえず残しておいて、いろいろな物に囲まれて、どこに仕舞ったかわからなくなってずっと怒りながら半日でも探す人だ。
母や私も捨てるタイプで、私たちが捨てるとすぐに拾って元に戻すのが父だった。
TVニュースで、ゴミ屋敷に住む老人の心理は、父と共通する。
まだ、他に捨てられた自転車などを拾ってこない分、ゴミ屋敷となっていないだけだ。
6月30日の午後に来て、7月4日に北海道の私と息子の家に行く予定で、両親の家財の処理と引越し手続きに正味3日間しかない。
前もって、引越し業者には、ネットで見積もり予約をしておいて、翌日から業者が数件やってくる手はずを整えてきた。粗大ゴミ処理業者は、両親の住む町の業者を電話帳で探して見積もり依頼をした。
母と簡単に話をして、部屋を掃除し、洗濯をする。
買い物に出かけ、栄養豊かな食事を作っていると、父がタクシーで帰宅した。
どこに行っていたのか尋ねると、バツが悪そうな笑顔。競艇だったようだ。
タクシーの運転手にお金を払う際、ポケットの中のお金を支払いながら、競艇の紙を沢山落としていた。
ヨレヨレのズボンをはいて、老化した脳で競艇に行く父を、受け入れるしかなかった。50年近く真面目に働いて、定年後は、競艇に夢中になってしまった父。
アルツハイマー病で、会話もおぼつかなくなった母との不便な生活からくるストレス発散に、数年はずっと新聞の競艇欄を見続けていた。
翌日からの引越し手続きの段取りを父に伝え、母にも説明するも、なぜ引越しをするのか不安がる母に、何度も説明する。家族みんなで暮らすんだよ、美味しいものを食べて安心して暮らすんだよと繰り返す。
翌朝から、役所、税金支払い、年金受け取りの銀行担当者にも事情を伝える。両親がそれぞれ通っていた脳外科の医院にも、転居の際の診断書をいただく。アルツハイマーと糖尿が重い母には、特に必要な書類だ。母の正常な状態とこれまでの処置を理解する人がいなければ、転院するにも受け入れが大変だ。
その外回りの合間に、引越し業者を選定し、必要とする荷物をまとめる。
家事をして、両親に食事をしてもらう。
母方の親戚に連絡をして、来ていただく。
みな、母が大好きな兄弟妹だった。久しぶりに皆が集まったので、母は大喜びしていた。その姿を見て、皆さんは目を赤くして対応していた。
叔母に母や私の着物の目利きをしてもらい、母と私の花嫁道具の桐ダンス2棹に収まるような量にしてもらった。
両親の年金で両親は暮らせるかと思ったが、父は年金を担保に借りたお金を競艇につぎこんでいたので、ギリギリの生活だったようだ。しかし、それでも足りず、大家さんに挨拶に行くと、家賃を半年滞納していたので、父に尋ねるとそうだ、払っていないと答える。想定外の支払いや、老化した両親を受け入れるしかなかった。
父は真面目な人だった。定年後は、競艇のばくちにはまったが、人間、いいところも良くない弱いところもあるものだと受け入れた。老化した父を責めても、競艇につぎ込んだお金は戻ってこない。
それよりも、これからは両親に美味しい栄養豊かな食事と安心した生活を送ってもらいたい気持ちが強かった。
「親孝行したいときに、親はなし」という後悔はしたくなかった。それだけだった。
多くはない両親の年金で、これから両親と息子と私の4人で暮らすには、心細いところがあったが、今まで通り、私が一生懸命仕事をして、親孝行して暮らすのであれば、おかしなことにはならないだろうという楽観的な考えでいた。
7月4日に、北海道の私たちの家に行く際の飛行機内では、歩行がおぼつかない母、老化で気弱いいでたちの父を見る周りの目が温かかった。
母が「これからどこへ行くの?」という問いに答える会話を聞いていたのだろう、熟年層の男性女性が、事情を察したらしいように、がんばってねという声をかけてくれた。
私もいろいろな経験からくる、温かい声かけをしてあげたいとふと思う。
空港に預けてあった車に両親を乗せて、そのままこれから住む町の役所に直行した。両親は疲れていたようだったが、翌日以降の雑用を思うと、このまま住民票や福祉の手続きなど、両親を見ていただきながら、私が代行するほうが、早くて簡単に済むと判断したのが、良かった。
母の問答の様子、父の判断能力の低下をすぐに察して、複雑な子供による代行手続きの面倒を省いてくださったのがありがたかった。
夕方帰宅すると、息子と久しぶりの対面で両親はほっとしていたようだったが、疲れているようで、私たちの布団で眠ってもらって、私と息子は、キャンプ用の寝袋でしばらくの間眠った。
明日は、老いた両親と暮らし始めたことを書きます。
感謝
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