「バベットの晩餐会」1987年に公開されたデンマークのドラマ映画。アイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)の同名小説の映画化作品で、同年度のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した。
時代は19世紀、重苦しい雲と海を背景にしたユトランドの片田舎が舞台である。美しい姉妹であるマーチーネとフィリパは、牧師である老父と清貧な暮らしを送っている。
今の仕事に入る前は、映画鑑賞三昧だったため、wowowかJ-comの映画番組で、この映画を一度鑑賞した。そのときは、半分居眠りをしたか、で物語を堪能していなかった。
ネットのGYAOの映画で再度観ることができて、やっと堪能できた。
派手なシーンが繰り広げられることはないが、信仰、人生の選択、結婚、料理が人々に幸せをもたらす、などの要素を感じ取ることができて、幸せな鑑賞だった。
今の自分なら、この映画の作者の伝えたかったことを感じ取れる作品だ。
映画を観ているときに、姉妹の娘たちが、それぞれ求婚してきた男性たちとお付き合いをして結婚したらどうしただろう、と想像した。
姉妹のどちらかが結婚して家を出たなら、残った娘が父の信仰生活を引き継ぎ、村人の幸せのために奉仕をする生活となる。
姉妹二人とも結婚して家を出たなら、父は一人牧師として命を終えるまで村人のために奉仕をして、誰か牧師を受け継ぐ人がいればいいが、いなければ小さな村人たちは、自分たちだけで信仰をして生きていくことになる。
信仰がなければ生きていけない、ということはないが、信仰心があれば、生きる小さな指針のようにして、小さな幸せを感じながら生きていく。
父親は姉妹に対して、求婚してきた男性と会わせないことはせず食事を共にし、あえて反対しない。姉妹も男性の気持ちを拒絶するわけではないが、男性の心に飛び込むこともしなかった。信仰ある生活を変えるか結婚を受け入れるか、悩んでいるところは映画のなかでは見せなかった。
時を経て、姉妹は年老いて父の後を継いで、信仰生活で村人たちに奉仕していた。
でも村人たちは、それぞれ人間らしく煩悩ある生活を送っていた。
そこへバベットが家政婦として姉妹の生活へ受け入れられた。
限られた食材で美味しい料理を提供し、家事を淡々としていく。
村人との交流も溶け込み、自分の仕事を楽しんでいる様子だ。
そこへ宝くじを当てて、それをどう使うか。
自分が以前していた調理メニューの食材にあてた。
そのメニューを食べた村人たちが、心を開放し、幸せな気持ちが頑なな嫉妬心や心に起きる毒気を払いのけた。
美味しさがもたらす功徳だ。
美味しいと感じる心は幸せをもたらす。
だからお金を払って時間をかけてでも、美味しく思う料理を食べたい。
そういう料理を作ることができるのは、幸せな人間だ。
今、コロナ禍で飲食業でお店を閉めることになるのは、そこまでの料理メニューではないのか、これを機会に休みたくなったか、ではないかと思うようになった。
自分が調理の仕事をしてみて、そのハードさに今、休みを取りたがっているから、よくわかる。
今、続ける気持ちがなくなった、続けることが不可能な状況になった、でもいいのだ。
すべて自分が決めたことでいい。
コロナのせいじゃない。
コロナがきっかけで、自分の人生を変えることになったでいいじゃないか。
さて、バベットはお金を使い果たして、また姉妹と村人のために生きることを選択した。
街に戻って調理人として生きることを選択しなかった。
街の調理人になれば、多忙な日々となる。
自分が作った料理を食べて幸せを感じる人たちは多くいるだろうが、街の調理人としての生活には未練がなかった。
街には亡くなった家族の思い出もあるだろう。
自分の人生の最後は、ここで家政婦として静かな暮らしをすることにしたのだ。
ここで私の人生を考える。
自分も静かな暮らしを望むのかどうか、考えてみた。
ブランド品、豪華なものに囲まれた、 華やかな暮らしをしたいとは思っていない。
信仰ある暮らしはしていく。
多忙すぎる仕事はしない。
人が喜ぶことを考えてそっとし続ける日々にしていきたい。
旅行が好きだから、時々滞在型の旅ができればいい。
こうやって好きに書き物をして、読書もできればいい。
健康だからしたいことをやりたいように生きるだけの仕事をしていけばいいか、と思うようになっている。
地位、名誉はないし、これからも望まない。
人が喜ぶことができる仕事環境を創るための資金があればいいから、お金は必要なだけいる。
その仕事で得るお金で旅行をして、読書ができる時間もあればいい。
地球のどこにいても、会いたい人、パートナー、息子に会うためのお金はほしい。
この人生を実現するための一歩としての仕事と出遭うことができたら、幸せだ。
すべてに感謝。
時代は19世紀、重苦しい雲と海を背景にしたユトランドの片田舎が舞台である。美しい姉妹であるマーチーネとフィリパは、牧師である老父と清貧な暮らしを送っている。
今の仕事に入る前は、映画鑑賞三昧だったため、wowowかJ-comの映画番組で、この映画を一度鑑賞した。そのときは、半分居眠りをしたか、で物語を堪能していなかった。
ネットのGYAOの映画で再度観ることができて、やっと堪能できた。
派手なシーンが繰り広げられることはないが、信仰、人生の選択、結婚、料理が人々に幸せをもたらす、などの要素を感じ取ることができて、幸せな鑑賞だった。
今の自分なら、この映画の作者の伝えたかったことを感じ取れる作品だ。
映画を観ているときに、姉妹の娘たちが、それぞれ求婚してきた男性たちとお付き合いをして結婚したらどうしただろう、と想像した。
姉妹のどちらかが結婚して家を出たなら、残った娘が父の信仰生活を引き継ぎ、村人の幸せのために奉仕をする生活となる。
姉妹二人とも結婚して家を出たなら、父は一人牧師として命を終えるまで村人のために奉仕をして、誰か牧師を受け継ぐ人がいればいいが、いなければ小さな村人たちは、自分たちだけで信仰をして生きていくことになる。
信仰がなければ生きていけない、ということはないが、信仰心があれば、生きる小さな指針のようにして、小さな幸せを感じながら生きていく。
父親は姉妹に対して、求婚してきた男性と会わせないことはせず食事を共にし、あえて反対しない。姉妹も男性の気持ちを拒絶するわけではないが、男性の心に飛び込むこともしなかった。信仰ある生活を変えるか結婚を受け入れるか、悩んでいるところは映画のなかでは見せなかった。
時を経て、姉妹は年老いて父の後を継いで、信仰生活で村人たちに奉仕していた。
でも村人たちは、それぞれ人間らしく煩悩ある生活を送っていた。
そこへバベットが家政婦として姉妹の生活へ受け入れられた。
限られた食材で美味しい料理を提供し、家事を淡々としていく。
村人との交流も溶け込み、自分の仕事を楽しんでいる様子だ。
そこへ宝くじを当てて、それをどう使うか。
自分が以前していた調理メニューの食材にあてた。
そのメニューを食べた村人たちが、心を開放し、幸せな気持ちが頑なな嫉妬心や心に起きる毒気を払いのけた。
美味しさがもたらす功徳だ。
美味しいと感じる心は幸せをもたらす。
だからお金を払って時間をかけてでも、美味しく思う料理を食べたい。
そういう料理を作ることができるのは、幸せな人間だ。
今、コロナ禍で飲食業でお店を閉めることになるのは、そこまでの料理メニューではないのか、これを機会に休みたくなったか、ではないかと思うようになった。
自分が調理の仕事をしてみて、そのハードさに今、休みを取りたがっているから、よくわかる。
今、続ける気持ちがなくなった、続けることが不可能な状況になった、でもいいのだ。
すべて自分が決めたことでいい。
コロナのせいじゃない。
コロナがきっかけで、自分の人生を変えることになったでいいじゃないか。
さて、バベットはお金を使い果たして、また姉妹と村人のために生きることを選択した。
街に戻って調理人として生きることを選択しなかった。
街の調理人になれば、多忙な日々となる。
自分が作った料理を食べて幸せを感じる人たちは多くいるだろうが、街の調理人としての生活には未練がなかった。
街には亡くなった家族の思い出もあるだろう。
自分の人生の最後は、ここで家政婦として静かな暮らしをすることにしたのだ。
ここで私の人生を考える。
自分も静かな暮らしを望むのかどうか、考えてみた。
ブランド品、豪華なものに囲まれた、 華やかな暮らしをしたいとは思っていない。
信仰ある暮らしはしていく。
多忙すぎる仕事はしない。
人が喜ぶことを考えてそっとし続ける日々にしていきたい。
旅行が好きだから、時々滞在型の旅ができればいい。
こうやって好きに書き物をして、読書もできればいい。
健康だからしたいことをやりたいように生きるだけの仕事をしていけばいいか、と思うようになっている。
地位、名誉はないし、これからも望まない。
人が喜ぶことができる仕事環境を創るための資金があればいいから、お金は必要なだけいる。
その仕事で得るお金で旅行をして、読書ができる時間もあればいい。
地球のどこにいても、会いたい人、パートナー、息子に会うためのお金はほしい。
この人生を実現するための一歩としての仕事と出遭うことができたら、幸せだ。
すべてに感謝。
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