今、あるのかはわかりませんが、ずっと以前、日曜日の朝には心の時代というNHKの番組があり、いろいろな宗教の人がでて話をされていました。だからというわけではないですが、今日は信仰の話。
信仰や敬虔さは神仏(など)に対する思いや行動、熱心さを示します。
神仏(など)を信仰するグループのことを宗教・宗派と呼び、そこではたいてい具体的に信仰の在り方や敬虔さの示し方を教えてくれます。
そのためとても効率的に神仏(など)に寄り添うことができることでしょう。
例えば、神道では古典的に穢れを忌避しますが、神様すごいな、神様に罰が当たらないようにしないといけないよな、と思っても、その方法がわかりません。そんな時にケガレはダメですよ、と教えてくれるのが宗教です。
神道はさすがに日本の宗教だけあって、日本人に効率的に寄り添う内容が多く、ケガレも、体内の気が枯れてしまったため起こる死を示すとの考えもあります。
穢れを忌避するのは単純な忌避感というよりも、腐敗しやすい日本の風土的な問題の現れではないかと私は思っています。
縄文時代は死者の顔に辰砂(水銀を含む赤い鉱石)の粉を塗って埋葬する習慣があったそうですが(全国区ではないでしょうけど)、これは穢れが出てこないことと、水銀の殺菌性をもしかして狙っていたのでは?と思ったりしています。
さて、ケガレを嫌う日本神話ですが、
ケガレとは、気枯れという意味ではなかろうか、という説があります。
死は、無意識に訴える恐怖があります。そしてその瞬間まで生きていた人の魂がどこかに行ってしまうような、境目のわからないことも多いものです。そこに恐怖を感じるのは当然でしょう。
ユダヤ教・キリスト教の十戒では刑法的ですが、日本の穢れは民法的だと思います。
このように(?)
信仰したい、と思ったとき、そのルールや方法を教えてくれるのが宗教です。
しかしながら、信仰に宗教が必ず必要かと言えばそうではない、と私は思っています。
そして、自分に信仰するものがないからと言って、他人が信仰しているものを非難したり、ないがしろにしてよいというわけではありません。
どんな宗教であっても、その人にとっては心のよりどころであり、自由になれる場所なのです。
相手の信仰を尊重する、という信仰の在り方もあると思います。
信仰の有無にかかわらず、神様をイメージさせる場では犯罪が減ると言います。
私たちは幸福に生きるために、信仰を意識して過ごすことも良いのではないでしょうか。
と言っている私は宗教を持ちません(先日、あなたは人の姿をした神様だと言われました。そういうふうに人の中に神を見る人のほうが、内に神を宿しているのでしょう。私は神様をそのように思えないのでよくわかりません)。