ここのところ良く晴れた日が続き爽快な気分である。
半袖で行動している私の両腕と顔は既に夏色に近くなってきた。
そんな先日の事を記す。
丹波黒豆を作っていて休耕している圃場が有るというので下見に行く事にした。
その場所は古の若狭街道より少し舞鶴に向けて方向を変えようとする山中の場所で、
城丹国境の山並みの袂の谷間の杉木立の向こうに見ることができる場所であった。
清々とした風の中、しっかりと手入れされた状態で土が休んでいて
そこから水の上流には畑や田がなくたぶん潅水に使用する水も
谷の湧き水であろうかと思う。
圃場の面積は、約5反(1650坪)広い。
一人での作業となるとたいへん労力の必要な面積である。
現状は、やがて肥料となる緑肥植物の緑が美しく広がる清潔な圃場であった。
その帰り道に、近隣の様子を見てみようと知らぬ村落に入ってみた。
そこで発見!!!!!
先ほどの圃場の感動とはまったく別の感動だ。
ホンダ1300(77)
ホンダ創業者、本田宗一郎がこだわり続けた4輪用空冷エンジンの
又彼が最後に開発に関わったモデルである。
結果、空冷での限界を感じたホンダは、
この車の次のモデルからホンダの自動車は水冷エンジンとなる。
本田宗一郎最後のごり押し開発車。
結果、販売戦力に失敗し継続的に長続きするものではなかったようで、
CIVICという新しいコンセプトが社運を牽引していく事となる。
ぐるりと周りを回ってみたがこれと言って部品の欠品が無いので
上手くすれば走らす事ができるかもしれない。
しかし、左目が欠損。なぜかリアビューミラーが無い。
その部品の調達は不可能であろう。
ポンティアック然としたフロントマスクの意匠は私の記憶には、
当時、すごく新鮮思えて「かっこいい車だなぁ~」と感じた記憶が有る。
私の従兄弟がこの車の発展系スポーツモデルのクーペ9を所有してたので
幾度と無く乗せてもらったことが有る。
北山の山里に住む従兄弟で小学生の頃良く夏休みには訪れていた。
8トラックのカーステレオが付いていて、幼い私には今でこそ聞き慣れているが
ベンチャーズなんて知る事も無かったが、たぶんそんな曲が流れていたように思う。
父親と《スパイ大作戦》を見ていた終了のコマーシャルがそのクーペ9で、
主役のピーター・グレイブスがしていたので有るが違ったであろうか?
これぐらいのコンパクトセダンが今の日本車には無いのが残念である。
後ろ姿は当時は気づかなかったが
「何となくB110サニーだなぁ~。」と立ち眺めていた。
そんな1970年、万国博覧会があったし、
私は小学4年生であみだ池の学習塾に通わされた。
通わされたのである。行きたいので行かしてくれでは無い。
そのあみだ池の交差点の西南にあった塾の対面にはヤマハ発動機の大阪支店があった。
私はここでも塾の窓から、XS-1、DS6、DT1など気を奪われていては、
勉強などできるわけが無い。窓の外に見える出入りのモーターサイクルが
気になって仕方ないし、加速していく音が未だに脳裏に響いている。
あの、2サイクル独特の発信時こもった音から一気に速度が乗ったときの
甲高い音と紫煙がかっこいいと思っていた。
純白の大量のTD1が見れたときの感動は・・・・・・・・。(絶句)
確か、そのレーサーのエンジンをかけていたように思う。
未だ、その憧憬から醒めてなくて,どこかに繊細な女性的デザインが匂い、
スマートでチョツト隠れた粋が見えるヤマハが好きである。
通う大阪市立明治小学校は、旧校舎から新校舎に引っ越したばかりで、
夏秋先生が担任で都会の学校ゆえに1学級であった。
その中で、学級新聞を作ると言うので、
当時、流行った《フランシーヌの場合》を替え歌にして載せた記憶が有る。
その替え歌の題名は《小川君の場合》
小川君はグリンピースが食べられなくて、給食時間はいつもグリンピースの献立の時には
泣いていて掃除が終了して終礼の時でも給食皿を前にして食事中であったように記憶する。
残しても良い教育の今では考えられない事だ。
小川君の場合は、あまりにもお馬鹿さん。
小川君の場合は、あまりにも悲しい。
・・・・・・・・・
〆の言葉がグリンピースであったように思う。
高田恭子/みんな夢の中
最近、夢を見ることが多い。
昔の事ばかり。
それは現実として幼い私に降りかかった事ばかりの走馬灯的展開を超高速で
暗転と黒子の活躍が脳内で起る。
先回のブログの内容もしかりで、私は昔のいすゞトラックを運転していて五条通を爆走していたし、
昔の大阪市バスに乗っていて、野田阪神で全く知らない女性とお好み焼きを食べていたり、
幼馴染の杉野千鶴や谷美佐子が子連れで出てきて、西大阪模型でタミヤのプラモを買っていて、
中島屋でチェリオオレンジがなぜか中央市場のホットミーコー(ホット・オ・レー)で
あったりする。
ここんとこ、二回に亘り昔話・思い出話と車の話になってしまった。
半袖で行動している私の両腕と顔は既に夏色に近くなってきた。
そんな先日の事を記す。
丹波黒豆を作っていて休耕している圃場が有るというので下見に行く事にした。
その場所は古の若狭街道より少し舞鶴に向けて方向を変えようとする山中の場所で、
城丹国境の山並みの袂の谷間の杉木立の向こうに見ることができる場所であった。
清々とした風の中、しっかりと手入れされた状態で土が休んでいて
そこから水の上流には畑や田がなくたぶん潅水に使用する水も
谷の湧き水であろうかと思う。
圃場の面積は、約5反(1650坪)広い。
一人での作業となるとたいへん労力の必要な面積である。
現状は、やがて肥料となる緑肥植物の緑が美しく広がる清潔な圃場であった。
その帰り道に、近隣の様子を見てみようと知らぬ村落に入ってみた。
そこで発見!!!!!
先ほどの圃場の感動とはまったく別の感動だ。
ホンダ1300(77)
ホンダ創業者、本田宗一郎がこだわり続けた4輪用空冷エンジンの
又彼が最後に開発に関わったモデルである。
結果、空冷での限界を感じたホンダは、
この車の次のモデルからホンダの自動車は水冷エンジンとなる。
本田宗一郎最後のごり押し開発車。
結果、販売戦力に失敗し継続的に長続きするものではなかったようで、
CIVICという新しいコンセプトが社運を牽引していく事となる。
ぐるりと周りを回ってみたがこれと言って部品の欠品が無いので
上手くすれば走らす事ができるかもしれない。
しかし、左目が欠損。なぜかリアビューミラーが無い。
その部品の調達は不可能であろう。
ポンティアック然としたフロントマスクの意匠は私の記憶には、
当時、すごく新鮮思えて「かっこいい車だなぁ~」と感じた記憶が有る。
私の従兄弟がこの車の発展系スポーツモデルのクーペ9を所有してたので
幾度と無く乗せてもらったことが有る。
北山の山里に住む従兄弟で小学生の頃良く夏休みには訪れていた。
8トラックのカーステレオが付いていて、幼い私には今でこそ聞き慣れているが
ベンチャーズなんて知る事も無かったが、たぶんそんな曲が流れていたように思う。
父親と《スパイ大作戦》を見ていた終了のコマーシャルがそのクーペ9で、
主役のピーター・グレイブスがしていたので有るが違ったであろうか?
これぐらいのコンパクトセダンが今の日本車には無いのが残念である。
後ろ姿は当時は気づかなかったが
「何となくB110サニーだなぁ~。」と立ち眺めていた。
そんな1970年、万国博覧会があったし、
私は小学4年生であみだ池の学習塾に通わされた。
通わされたのである。行きたいので行かしてくれでは無い。
そのあみだ池の交差点の西南にあった塾の対面にはヤマハ発動機の大阪支店があった。
私はここでも塾の窓から、XS-1、DS6、DT1など気を奪われていては、
勉強などできるわけが無い。窓の外に見える出入りのモーターサイクルが
気になって仕方ないし、加速していく音が未だに脳裏に響いている。
あの、2サイクル独特の発信時こもった音から一気に速度が乗ったときの
甲高い音と紫煙がかっこいいと思っていた。
純白の大量のTD1が見れたときの感動は・・・・・・・・。(絶句)
確か、そのレーサーのエンジンをかけていたように思う。
未だ、その憧憬から醒めてなくて,どこかに繊細な女性的デザインが匂い、
スマートでチョツト隠れた粋が見えるヤマハが好きである。
通う大阪市立明治小学校は、旧校舎から新校舎に引っ越したばかりで、
夏秋先生が担任で都会の学校ゆえに1学級であった。
その中で、学級新聞を作ると言うので、
当時、流行った《フランシーヌの場合》を替え歌にして載せた記憶が有る。
その替え歌の題名は《小川君の場合》
小川君はグリンピースが食べられなくて、給食時間はいつもグリンピースの献立の時には
泣いていて掃除が終了して終礼の時でも給食皿を前にして食事中であったように記憶する。
残しても良い教育の今では考えられない事だ。
小川君の場合は、あまりにもお馬鹿さん。
小川君の場合は、あまりにも悲しい。
・・・・・・・・・
〆の言葉がグリンピースであったように思う。
高田恭子/みんな夢の中
最近、夢を見ることが多い。
昔の事ばかり。
それは現実として幼い私に降りかかった事ばかりの走馬灯的展開を超高速で
暗転と黒子の活躍が脳内で起る。
先回のブログの内容もしかりで、私は昔のいすゞトラックを運転していて五条通を爆走していたし、
昔の大阪市バスに乗っていて、野田阪神で全く知らない女性とお好み焼きを食べていたり、
幼馴染の杉野千鶴や谷美佐子が子連れで出てきて、西大阪模型でタミヤのプラモを買っていて、
中島屋でチェリオオレンジがなぜか中央市場のホットミーコー(ホット・オ・レー)で
あったりする。
ここんとこ、二回に亘り昔話・思い出話と車の話になってしまった。