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まくらが歌謡楽団のブログです♪

昔の楽譜

2020-01-13 23:26:46 | 歌声広場
こんばんは!今日は暖かな成人式になりましたね!

さて、今日は久しぶりに、懐かしいものを発見しました。
これです!

あまり綺麗ではないのですが…
これは、どなたのサインかおわかりになりますか?

昭和52年、かれこれ40年以上前へ~
当時、NHK3チャンネルでは「ピアノのおけいこ」という番組をやっていたのですが、その番組の生徒役で出るオーディションを受けた後、NHK内にある食堂で食事をしていたら、母が急に「ねぇ、あの方、中村八大さんよ!きっとそうよ!サインお願いしてきなさい」を言われ、私はまだ小さかったので、もちろんそんな名前聞いたこともないし、ありがたみもわからなかったので、なんだかヤダな~と思いながら、持っていた楽譜とそばにあった赤ペンでサインしていただいたのでした。その後も、クラシックの勉強にはそのお名前は出てくることはありませんでしたので、いつも「なんでかな~」と思いながら、何十年も経ち、ようやくそういえば…とここでこのサインについて書くことができたのです。

中村八大さんについて(ウイキペディアより)

1931年、青島にて誕生。父親は青島の日本人学校で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで1940年春、小学4年生に進級すると同時に日本へ単身留学、新宿の国民学校へ転校。東京音楽学校(現・東京芸術大学)の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿、浅草などの劇場に足しげく通っていた。 
1941年末に日米戦争が始まると、翌1942年には早くも帝都は空襲に見舞われ始め、音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年夏、青島へ引き揚げた。1945年には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える。再び大っぴらに音楽活動ができるようになった中村は、旧制中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた。 
1948年春、当時売れっ子の作曲家であった利根一郎が北九州の炭鉱の慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた中村の兄・二大(当時、早大に在籍しながらジャズを行っていた)からの誘いで八大もこれに加わる。大宴会場での興行を会場の隅で見物し、小畑実のバックでピアノを弾いたこともあった。この年の秋の中学の文化祭では、クラシックのコンサートでのピアノ演奏、演劇グループの芝居での伴奏、のど自慢大会での全曲伴奏などをすべて引き受けて、度肝を抜かせた。なお、こののど自慢大会では生涯通じてほとんどなかった生歌の披露を行っており、『セコハン娘』の替え歌を歌った。 
1949年春に上京、早稲田大学高等学院の3年に編入。生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。夏休みにはクラリネット奏者として独立していた二大の伝手で、大阪の名門ダンスホール『赤玉』に1ヶ月、『谷口安彦とプレミア・スウィング』のメンバーとして赴く。 
1950年、早稲田大学へ入学。二大の紹介から渡辺晋の勧誘を受け、松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『スイングジャーナル』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし間もなく、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生、中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退してしまう。 

…以下、ジャズメンとしての生活、やがて時代の流れからプロダクション、放送界での番組、自身の作曲活動ほか、大変詳しくウィキペディアには載っていますので、さらに興味を持たれた方はぜひ、検索をして続きをお読み下さい。
作曲家としての苦悩から薬物依存に陥ったり、成功の影には苦しみあり、芸術家として作品を生み出すことがいつも自身の喜びへとつながっていたとは言いにくいところもあるが、しかし、中村八大にとっての必然ともいうべき出会いが永六輔。「六・八コンビ」として数多くのヒット曲を世に送り出してゆく…

さて、残した作品を見てみると、たしかに聞いたことのある曲が多い。

主な作曲作品
  • 梓みちよ 
    • 「こんにちは赤ちゃん」 第5回日本レコード大賞受賞
    • 「STVの歌」 札幌テレビ放送イメージソング
  • 北島三郎 
    • 「帰ろかな」
  • 九重佑三子 
    • 「コメットさん」 TBS『コメットさん』テーマソング
    • 「ウェディング・ドレス」
    • 「しあわせ」
    • 「青い恋」
    • 「抱きしめて」
  • 堺正章 
    • 「明日を祈る」
    • 「なんでこんなに」
  • 坂本九 
    • 「上を向いて歩こう」 全米チャート・ビルボード3週連続1位。 世界70ヶ国でリリース
    • 「明日があるさ」 2001年にウルフルズとRe:Japanのカバーで再ヒット
    • 「一人ぼっちの二人」2008年の連続テレビ小説『だんだん』の中で使用されている。
    • 「銀座の夜」
    • 「さよならさよなら」
    • 「世界の国からこんにちは」 日本万国博覧会(大阪万博、EXPO'70)テーマソング。
    • 「そして想い出」日本初の手話による手話のための歌
    • 「口笛だけが」「夢を育てよう」「フライパンの唄」「銀座の夜」「太陽と土と水を」
    • 「生きていてよかった」ほか多数
  • 坂本スミ子 
    • 「夢であいましょう」 NHK総合テレビ『夢であいましょう』テーマソング
  • 4代目三遊亭小圓遊 
    • 「マドモアゼル」
  • 4代目三遊亭小圓遊・三波伸介・5代目三遊亭圓楽・桂歌丸・6代目三遊亭圓窓・林家こん平・林家木久蔵(現:林家木久扇)・松崎真 
    • 「アリャリャン音頭」
  • 塩見大治郎&ヤング101 
    • 「若い旅」
  • ジャニーズ 
    • 「若い涙」 デビュー曲。ジャニーズ事務所のスタートを飾った曲
  • シング・アウト 
    • 「涙をこえて」 第1回合歓ポピュラーフェスティバル・グランプリ受賞曲。 NHK総合テレビ『ステージ101』オリジナルソング
  • 宝みつ子(「嵯峨野れい」名義) 
    • 「しゃれた気分」
    • 「東京-パリ」
    • 「ルイサが知りたきゃ蛇にきけ」
  • ダークダックス 
    • 「近鉄の歌」(近畿日本鉄道社歌)
  • 田辺靖雄・梓みちよ 
    • 「いつもの小道で」
    • 「ひとりだけの歌」
  • デューク・エイセス 
    • 「おさななじみ」
    • 「続・おさななじみ」
  • 中尾ミエ 
    • 「雨の遊園地」
  • 中山千夏 
    • 「宇宙にとびこめ」
  • 西田佐知子 
    • 「初めての街で」 菊正宗酒造のコマーシャルソング
    • 「故郷のように」 NHK『夢であいましょう』今月のうた
  • 萩本欽一・真屋順子 
    • 「欽一・順子の子守唄」 テレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』挿入歌
    • 「妻は夫をいたわりつ」
  • ザ・ピーナッツ 
    • 「私と私」
    • 「東京の四月」
    • 「幸福のシッポ」
  • 弘田三枝子 
    • 「ブルージン・ブルース」
    • 「寝不足なの」
  • ジェリー藤尾 
    • 「遠くへ行きたい」 第4回日本レコード大賞作曲賞受賞
    • 「インディアン・ツイスト」
  • 松崎しげる 
    • 「ぼく達はこの星で出会った」 遺作。第1回古関裕而記念音楽祭・金賞受賞曲
  • 水原弘 
    • 「黒い花びら」 第1回日本レコード大賞受賞
    • 「黄昏のビギン」(永六輔との共同作詞)
    • 「黒い落葉」「青春を賭けろ」「暗い慕情」「野良犬の歌」「この青さこの若さ」「水にうつりし月」「恋のカクテル」「別離」「黒い貝殻」「男一匹旅がらす」「黒い三度笠」「黒い旅鴉」「星の下の瞳」「風に歌おう」「青春を賭けろ」「素晴らしい人生」「東京の夜」「何も云わないで」
  • 三波春夫 
    • 「世界の国からこんにちは」 日本万国博覧会(大阪万博、EXPO'70)テーマソング
  • 森山加代子 
    • 「じんじろげ」
    • 「青空を抱きしめよう」
    • 「幸福のシッポ」
  • その他 
    •  東海テレビ放送のステーションソング「楽しい1チャンネル」(1963年)
    • 「笑点」(日本テレビ系列)のテーマ音楽 (1969年11月 - 現在)
    • 「遠くへ行きたい」(よみうりテレビ・日本テレビ系列)のテーマソング (1970年10月 - 現在)
    • 「ステージ101」(NHK総合テレビ)のテーマソング (1970年1月 - 1973年4月)
    • 「JNNニュース」(TBS系列)のテーマBGM (1975年春 - 1984年秋まで使用)
    • 「想い出はいつも」(埼玉県草加市歌)
    • 「川口市立新郷東小学校校歌」(作詞は岩谷時子)
    • 「柏市立柏高等学校校歌」(作詞・作曲)
    • 「月隈こども園園歌」(大分県日田市にある認定こども園。作詞は当時の園長・武内一美)
    • サンフランシスコ日本語補習校校歌「いつか世界の架け橋に」作曲 中村八大 作詞 サンフランシスコ日本語補習校生徒
では、今日は最後にこの曲で~おやすみなさ~い♬




童謡 「月の砂漠」

2020-01-12 08:46:17 | 日記
皆様、おはようございます😃 
今朝は庭一面に霜なのか、それともうっすら雪?なにかグラニュー糖のような白い粉が降りかけられているような、そんな景色でした。

さて、昨日は仕事の合間にふと、童謡「月の砂漠」について思いましたが…
日本は砂丘といえば鳥取砂丘、でも、こんな風にラクダにのってゆらゆら揺られる旅なんて、イメージが湧かないのに、どのような経緯で砂漠を題材に詩が書かれたのでしょう…


そこで、今日もウィキペディアより~

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、大日本雄弁会講談社(現講談社)発行の雑誌『少女倶楽部』1923年(大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。 
これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として『青い鳥楽譜』と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている~

なるほど…では、その挿絵は、どこで描かれたのかな?
そこでもう一度ウィキペディアへ~

加藤は1965年(昭和40年)、朝日新聞記者本多勝一のインタビューに答えて、作詩の経緯について、「動機って、ただ『少女倶楽部』から“何でもいいから”と注文されただけですよ。ぼくは沙漠どころか、外国へはどこも出たことはないけれど、沙漠にはなんとなくあこがれがありましてね。沙漠の歌でもって気になったんです」と語っている。念頭に置かれていたのはアラビアの情景だったという。ただし、初出時に加藤自身が描いた挿画では、ラクダはアラビアのヒトコブラクダではなく、中央アジアのフタコブラクダになっていた。後年に加藤が描いた絵では、ヒトコブラクダに修正されている。

へぇ~そうだったんですね😵 
勉強になりました。ちなみに、加藤まさをさんの作品については、ご出身の静岡県藤枝市の「郷土博物館・文学館」に一部収蔵されているそうです。こちらをご覧下さい。



今年は、是非、わが楽団「まくらが歌謡楽団」でも、月の砂漠を歌ってみたいなと思います。

童謡・唱歌 「七つの子」

2020-01-10 13:11:00 | 日記
童謡・唱歌の話題が出たので、今日の題名は「からす」

からすといえば、「七つの子」「夕焼け小焼け」


どうしてなのかな~この歌を聴くと、何かじ~んとしてしまうのは…
幼き日の思い出?それとも何か、童謡・唱歌には日本独特の風情が隠されているのか…
「七つの子」は野口雨情が作詞、本居長世が作曲した歌。 大正10年(1921年)、児童文学雑誌『金の船』の7月号に発表された。
野口雨情は、皆様もご存知の通り、北原白秋、西條八十と共に素晴らしい童謡を世に残したことでも有名。そしてなんと、野口雨情は、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれ、本名は英吉さんとおっしゃる(私の祖父と同じ名前😄 )そうですが、さすがペンネーム、上手い!ですね😍 

さて、野口雨情の生涯を見ていくと、何かいつも暗い影があって満たされない、明るい日のあたる場所を常に追い求めて生きていった人のように感じますが、だからこそ芸術家魂のある素晴らしい作品が生まれたのかもしれません。
代表作には、
『十五夜お月さん』
『赤い靴』
『青い眼の人形』
『シャボン玉』
『こがね虫』
『あの町この町』
『雨降りお月さん』
『証城寺の狸囃子』
『よいよい横町』
『波浮の港』
『船頭小唄』
どれも大変有名ですね!特に私は「あの町この町」「波浮の港」が大好きです。いつか、皆さんと一緒に歌いたいですね♪

そして、作曲の本居長世。
ウィキペディアに、興味深い事がたくさん載っていましたので、やや長文ですがそのまま掲載します。

1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。 
生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎(東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。 
折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり、以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった)。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った。1945年(昭和20年)肺炎により死去。

「童謡」は、誰もが口ずさめる簡単なもの、民謡のように自然発生した歌のように思われそうだが、この曲について調べてみると、その頃の日本では音楽、文学の中心にいた方々によって大切に育まれた芸術ということができそうだ。それは、心の玉手箱。
昨今の小学校では、小学唱歌をほとんど歌わないそうだが、とてももったいないことだ。童謡は、ただ歌うだけでなく、優しい心と情緒も育てる。良いのか悪いのかわからないが、この歌のせいか?私は、からすを悪い鳥だと思うことができない。同じ鳥なのだから、すずめも、それからお店で売られているインコも文鳥も~みんな命ある鳥、一生懸命に生きているのだ。だから、庭にカラスが来ると、思わず話しかけてしまう…

「童謡・唱歌」も、日本の芸術の1つとして、歌声広場では後世に残るように、歌い継いで行きたいと思う。

歌声広場で歌いたい~思い出の1曲~は?

2020-01-09 20:09:17 | 日記
こんばんは!
先日、ブログサークルというサイトから大阪の方の歌声広場で歌っていらっしゃるTedさんという方とお友達になりました。そして、歌声広場についてたくさんの情報を教えていただきましたので、その中から今日は、思い出の曲にまつわる素敵なエピソードをご紹介させていただきます。
(Tedさんのホームページはこちらから)

1曲を選ぶのは本当に難しいです。この1月に私的に関係することを理由に選べば、ドイツ民謡「故郷を離るる歌」です。戦後の大連で、引き揚げを前にした1947年1月頃、幼友だち・Y子さんとその姉君がよく歌っていたので覚えました。私は石川県の金沢市で生まれ、たまたま敗戦前年に大連へ移住しました。他方、彼女たちは大連生まれで、引き揚げを待ち望んではいても、「故郷を離るる」悲しみも深かったに違いありません。Y子さん一家の引き揚げ先も同じ石川県だったので、彼女と大学生時代に再会し、友人関係はずっと続きました。そして、彼女は9年前の1月に金沢の病院で亡くなりました。今月参加する歌声の会では、この歌をぜひリクェストして、彼女の追悼をしたいと思っています。



ちょっと休憩~ 第2回目 「潮来花嫁さん」

2020-01-08 14:05:00 | 歌声広場
こんにちは!今日は、とても寒いですね~😲 
さて、今日は「潮来花嫁さん」について勉強してみましょう♪


実はこの歌、まくらが歌謡楽団に入るまで全く知らなかった曲なんです。そこで、最初に「いたこ」と聞いた時には一瞬、あの「イタコ」、除霊士のイタコさんかと思いましたが、潮来市の「潮来」だったのですね。安心しました😃 初めて花村菊枝さんの歌声をYouTubeで聴いた時は「なんて美しい声なんだろう~」って感動しました。

さて、潮来市というと、地元、茨城県ですね!そして、なんとまだ潮来花嫁さんに会えるんです!それは、年に一度、あやめ祭りの期間中だそうですが、詳しくはこちらへ。風流ですね~

さて、今日もウイキペディアに行ってみましょう。
「潮来花嫁さん」は、1960年4月に発売された花村菊江のシングル。 2006年6月21日に新録音で復活した。

収録曲(2006年発売のもの)
  1. 潮来花嫁さん(新録音)
  2. 恋づかれ
  3. おんな無法松
  4. 恋の瀬見峡
  5. 潮来花嫁さん(カラオケ)
  6. おんな無法松(カラオケ)
  7. 潮来花嫁さん(1974年version)
  8. 潮来花嫁さん(オリジナル)
1つのCDに潮来花嫁さんが4曲も入っているんですね!潮来花嫁さんの好きな方には見逃せないアルバムですね😄 
さらに、「潮来」という名称の付いた曲を見てみると~
橋幸夫さんの「潮来笠」という曲があります。ウイキペディアによると~

橋幸夫のデビュー曲であり、股旅曲の代表的な作品である。累計で約120万枚を売り上げた。作詞、作曲は橋の恩師にあたる佐伯孝夫と吉田正。恩師の吉田によれば、『潮来笠』は、ビクターを代表する作詞家佐伯孝夫が、「ふさわしい歌い手がでてくるまでと、永年、あたためられていたテーマ」としている。もともと、佐伯が、茨城の潮来水郷へ訪れた時に、その情景にひかれて作りあげた作品であったが、「この作品を歌うぴったりの歌手が見当たらない」まま「3年もの間あたためていた」時に、橋幸夫がビクターの専属歌手オーディションに受かり入社してきた。橋のレッスンを見た佐伯が、「いかにも高校生らしく、....健康な素直さにあふれている」と悟り、橋に提供することを決めたとされている。


そういえば、先日初めて知りましたが、茨城県日立市に「吉田正記念館」というのがあって、名誉館長さんが橋幸夫さんなんですよ!一度行ってみたいなぁと思います。

いろいろ脱線しましたが、最後にあやめ園の潮来花嫁さん画像です(ウイキペディアより)


さぁ、そんなあなた、もう「潮来花嫁」、歌ってみたくなりましたね😁 
では、歌声広場「まくらが歌謡楽団」へどうぞ~♪