つれづれブログ

日常のちっちゃなことをつれづれなるままに・・・

歴史

2011-05-10 08:57:01 | Weblog
昨日中学生になった娘の初授業参観へ行って来ました。
担任の先生が歴史担当なのでその時間を狙い行ったら、何とテスト。
出来るのかどうかハラハラしながら覗き込んだら怒られた・・・

縄文時代から弥生時代に入った辺りを勉強中。
自分が中学生だった頃はあれほど嫌いだった歴史が、面白いではないですか。
特にこの部分。

天明4年(1784年)2月23日志賀島のお百姓さん2人が田の溝を作り直していると大きな石が出てきたので、これを「かなでこ」で掘り外したところ、石の間に光るものを見つけました。
 お百姓さんたち(発掘者についての節)は、それをひろいあげ水ですすいでよく見ると均整な印鑑のようなものであったため、その田の持ち主である百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていきました。

 甚兵衛は今まで見たこともないような物品なので、甚兵衛はその兄が以前奉公していた福岡の画商を訪ねそれを見せたところ、金色に輝いていて重いので「これは純金にちがいない鋳つぶして武具の飾りにでもしたら」とのことになったようです。
 しかし、この画商と親しくしていた儒学者亀井南冥(かめいなんめい)がこれを見て、印面に掘られている「漢委奴国王」の5文字から、さきの後漢書の記事がピンときたようです。
 これこそ「後漢の光武帝が倭奴国の使者に賜った印綬」であろう・・というわけで金印はたちまち街中の話題になったとのことです。そして、「そんな貴重なものは早速お役所に差し出せ」ということになりました。
 そこで、当時の志賀島村庄屋武蔵は「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出たのです。

 ところが、亀井南冥は金印を自家の宝物にしようと思い、郡役所に15両で買いとりたいと申し出たが許されなかったので、それでは100両出そうといいました。そのため郡役所はたいそう驚き、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田の藩庁にまで届け出ました。
 藩庁では直ちに亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証をさせるとともに、甚兵衛には白銀五枚を与えて金印を黒田家に収めました。それ以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されてきました。金印は明治になって国宝に指定され昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり東京の国立博物館に保管されていました。その後、昭和54年黒田家から福岡市に寄贈され、市美術館の開館とともにその黒田記念室に保管し、一般に展示公開されています。



このレプリカを先生が見せてくださったのですが、「ちっちゃ。。。」
よく見つけたなあ、甚兵衛さんや。
でもってこの印を、中間テストで高得点だと「バンッ」と答案用紙に押してくれると言うではないか。是非見たい。だってあんな小さな印にどうやって「漢委奴国王」の5文字を入れたんだ。
そうそう金印の持ち手みたいな部分は蛇柄なんだけど、それはそれぞれの国のイメージなんだって。日本(もちろんその頃は日本なんて言われてないけど)って蛇のイメージあるかな???蛇みたいな国って???ニョロニョロしてるとか???
とにかくまずは見てみたいと言う訳で、強制的に歴史集中勉強月間となりました。