今日明日と一泊での雲仙旅行。
朝10時過ぎに家を出て、新幹線のぞみで博多まで、バスで只今金立というパーキングエリア。
18:20 雲仙のホテル東洋館に到着。
想像以上の立派なお部屋!!
朝10時過ぎに家を出て、新幹線のぞみで博多まで、バスで只今金立というパーキングエリア。
18:20 雲仙のホテル東洋館に到着。
想像以上の立派なお部屋!!
親父が後妻をもらってからワタクシは祖母と一緒に寝て育てられた。
親父と継母は“店の間”で、祖父祖母姉ワタクシは“座敷の間”で過ごし、まるで別家庭のようだった。
もっとも、食事は皆揃って“中の間”で食べたが・・・。
我が家の間取りは、玄関から入ると通路が裏の畑まで通じており、
親父と継母は“店の間”で、祖父祖母姉ワタクシは“座敷の間”で過ごし、まるで別家庭のようだった。
もっとも、食事は皆揃って“中の間”で食べたが・・・。
我が家の間取りは、玄関から入ると通路が裏の畑まで通じており、
右側に“店の間”“中の間”~廊下~“座敷の間二部屋”そして“離れ”が並んでいた。
その土間で中の間を過ぎると、廊下と並んで釜戸・お風呂・井戸・台所が続いていた。
釜戸・お風呂は薪をくべて沸かし、井戸はポンプで汲み上げて(家の中に井戸があるなんて今では考えられないが)いた。
通路の突き当たりに便所があった。(勿論、当時は全て汲み取り式)
座敷の前は庭で、後には形ばかりの防空壕があった。
「空襲警報発令~~!!」の声を聞くと防空壕に逃げ込み、夜には電燈を黒い布で巻いて光を隠していた。
帰国後の親父の仕事は安定せず、転々と職を変えていた。
そんなことで家は貧しく、生計は土地の切り売りで凌いでいたらしい。
“離れ”は貸家にし、座敷の間の2階は滋賀大生の下宿にして家計の足しにしていた。
その土間で中の間を過ぎると、廊下と並んで釜戸・お風呂・井戸・台所が続いていた。
釜戸・お風呂は薪をくべて沸かし、井戸はポンプで汲み上げて(家の中に井戸があるなんて今では考えられないが)いた。
通路の突き当たりに便所があった。(勿論、当時は全て汲み取り式)
座敷の前は庭で、後には形ばかりの防空壕があった。
「空襲警報発令~~!!」の声を聞くと防空壕に逃げ込み、夜には電燈を黒い布で巻いて光を隠していた。
帰国後の親父の仕事は安定せず、転々と職を変えていた。
そんなことで家は貧しく、生計は土地の切り売りで凌いでいたらしい。
“離れ”は貸家にし、座敷の間の2階は滋賀大生の下宿にして家計の足しにしていた。
ワタクシは昭和16年4月に中国で生まれたらしい。
彦根のおじいちゃんおばあちゃんには子供がなく、養子を貰らうのだが、
彦根のおじいちゃんおばあちゃんには子供がなく、養子を貰らうのだが、
おじいちゃんは京都大丸の分家でそれなりの家柄からの養子を求めた。
たまたま近江長岡の庄屋(吉川家)の3番目の息子(おじいちゃんと従兄弟にあたる)を貰った。
その養子(ワタクシの父親)は結婚して、中国に渡り呉服屋を開いた。
呉服屋は京都大丸の関係もあり大いに繁盛したと言う。
ところが母親はワタクシを産み落とすと間もなく結核で亡くなった。
時も時、太平洋戦争の風雲怪しげになり呉服屋をたたみ、全財産を没収されて、
たまたま近江長岡の庄屋(吉川家)の3番目の息子(おじいちゃんと従兄弟にあたる)を貰った。
その養子(ワタクシの父親)は結婚して、中国に渡り呉服屋を開いた。
呉服屋は京都大丸の関係もあり大いに繁盛したと言う。
ところが母親はワタクシを産み落とすと間もなく結核で亡くなった。
時も時、太平洋戦争の風雲怪しげになり呉服屋をたたみ、全財産を没収されて、
おじいちゃんおばあちゃんのお迎えつきで帰国したと言う。
ワタクシには母親がないため、おじいちゃんおばあちゃんは「不憫だ不憫だ」と我が子のごとく猛烈に可愛がって育ててくれた。
ワタクシはこんな時代で、牛乳とかはないため「おもゆ」でひ弱に育った。
父親はワタクシの4~5才の頃、後妻(継母)を貰うがそうするとおじいちゃんおばあちゃんは、
ワタクシには母親がないため、おじいちゃんおばあちゃんは「不憫だ不憫だ」と我が子のごとく猛烈に可愛がって育ててくれた。
ワタクシはこんな時代で、牛乳とかはないため「おもゆ」でひ弱に育った。
父親はワタクシの4~5才の頃、後妻(継母)を貰うがそうするとおじいちゃんおばあちゃんは、
ワタクシを後妻に取られると思い余計可愛がった。
故にワタクシの「甘えんぼう」「わがまま」はそのまま性格としてこびりついている。
………………………………
生駒山にて
故にワタクシの「甘えんぼう」「わがまま」はそのまま性格としてこびりついている。
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生駒山にて