初めてアメリカ大陸に上陸したのは1989年5月10日のこと。
22歳だった。放浪の旅である。
サンフランシスコを皮切りに最終地点のニューヨークまで3ヶ月間
自分の足で歩いて、目で回った。とにかくでかい。
カルチャーショックとは、このことか。
ギターも持たずやってきたが、すぐに我慢できなくなって
サンフランシスコで即アコギを購入。公園でギターを弾いて
地元のミュージシャンと一緒に演奏を楽しんだ。
そして、ロスアンジェルスで日本人ロッカー、マサさんという人に出会い、
オープンステージでジャムセッションをした。周りのメンバーは初顔合わせのアメリカ人ばかり。
アメリカのステージに立った時はさすがに舞い上がった。
しかし、雲の上の存在とさえ思っていたアメリカ人も、所詮、僕と同じ人間。
ミュージシャン同士には共通言語さえ必要ない。
自分の中で、アメリカとの境界線がなくなった。
それにしても、12歳の時に「スモークオンザウォーター/ディープパープル」を聞いてロックに目覚め、
中学の音楽祭で先輩が弾く「レットイットビー/ザ・ビートルズ」のギターソロを聞いて、
エレキギターに飛びついた自分が、まさか10年後にアメリカのステージに立っているとは
僕自身想像できないことだった。
何を弾いたかも覚えていないし、スリーコードのブルースセッションだったと思うが、
ロックを生まれて初めて体感した気がした。レコードを通して日本で聞いていたロックではなく、
360度どこを見回しても、吸い込む空気まで、ありとあらゆるものがロックだった。
土壌の違いを痛感した瞬間でもあった。そして僕はロックとは実はジャンルのことではなく
アメリカそのものだと言うことを知った。ロックはコピーできないのだ。
22歳だった。放浪の旅である。
サンフランシスコを皮切りに最終地点のニューヨークまで3ヶ月間
自分の足で歩いて、目で回った。とにかくでかい。
カルチャーショックとは、このことか。
ギターも持たずやってきたが、すぐに我慢できなくなって
サンフランシスコで即アコギを購入。公園でギターを弾いて
地元のミュージシャンと一緒に演奏を楽しんだ。
そして、ロスアンジェルスで日本人ロッカー、マサさんという人に出会い、
オープンステージでジャムセッションをした。周りのメンバーは初顔合わせのアメリカ人ばかり。
アメリカのステージに立った時はさすがに舞い上がった。
しかし、雲の上の存在とさえ思っていたアメリカ人も、所詮、僕と同じ人間。
ミュージシャン同士には共通言語さえ必要ない。
自分の中で、アメリカとの境界線がなくなった。
それにしても、12歳の時に「スモークオンザウォーター/ディープパープル」を聞いてロックに目覚め、
中学の音楽祭で先輩が弾く「レットイットビー/ザ・ビートルズ」のギターソロを聞いて、
エレキギターに飛びついた自分が、まさか10年後にアメリカのステージに立っているとは
僕自身想像できないことだった。
何を弾いたかも覚えていないし、スリーコードのブルースセッションだったと思うが、
ロックを生まれて初めて体感した気がした。レコードを通して日本で聞いていたロックではなく、
360度どこを見回しても、吸い込む空気まで、ありとあらゆるものがロックだった。
土壌の違いを痛感した瞬間でもあった。そして僕はロックとは実はジャンルのことではなく
アメリカそのものだと言うことを知った。ロックはコピーできないのだ。