49『自然と人間の歴史・日本篇』吉備国と出雲国の併呑(出雲国)
現時点までの文物をみる限りでは、5世紀までに吉備の国が出雲・ヤマトの勢力に対抗する力を失い、そのことで出雲・ヤマト勢力による支配に組み入れられた(支配下に入った)かどうかは、判明していない。このような学問の進捗状況では、出雲や吉備がヤマトの勢力に組み込まれたのが6世紀半ば以降になってからという説の方が、より自然だという考えも出て来る。これらを合わせ考えると、卑弥呼の邪馬台国後から5世紀までの倭国内においては、「大王(おおきみ)」と各地の大首長との関係で多くの出来事が展開していた。大王としては、自らの地位を確立して大首長を隷属させ、当時の「全倭国」に対する集権的な支配権を樹立したい。
その一つは、自立的な地域支配者としての地位を確保して大王に対立する道であり、他は、大王に協力して隷属を強めつつ、それによって政治的地位の安泰をはかる道である。先年発見された埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にみられるヲワケ一族は、後者を選んで「世世杖刀人首」として大王に忠誠を誓っている。吉備氏は前者の道を選んで反乱への道を進んだのである」(吉田晶「吉備からみた大和」:「図説検証、原像日本3古代を綾る地方文化」旺文社、1988)と。
ここに出雲に由来する神話も考え合わせ、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国を出雲であるとする説(倉西裕子「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)がある。同氏によれば、「当時有力であったのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であった(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国といったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同著、61ページ)、とされる。
その当時の倭の中で、最も強い力をもっていた勢力とは、出雲とヤマト、北九州、そして吉備などであったのではないか。3世紀前半の出雲国(いづものくに)がどのように組み込まれていったかは、まだほとんどがわかっていない。おそらくは、別の強い勢力によってわしづかみで権力基盤を奪われた、つまり滅亡に追い込まれたのではなかったろう。とはいえ、このあたりの戦後の遺跡発掘により、九州にも似た独自の文化圏が、大和の統一政権の前に成立していたことが、明らかになりつつあるのではないか。その出雲の国の成立は未だに厚いヴェールに包まれている。後の8世紀になってから、朝廷が編纂したではない、門脇禎二氏によると、『出雲風土記』において神々の世界がどう語られているかを、こう伝えている。
「このように古墳の存在だけでなく、独自の支配体制をつくりだしていた痕跡が東部に認められるが、さらに独自のイデオロギー形成も考えられる。
古墳時代の終わりまで、出雲の有力な地域神としては、四大神があった。西からいえば、キツキの神、それからノギの神、それから北部のサタの神、そしてオウの神である。ところがこの四大神に、それぞれの地域の振興が集約的に代表されながらも、それらの神々と東部が決定的に違うのは、東部にはオミズヌ神の社(意宇の社)をもっていたことである。オミズヌ神というのは、『出雲風土記』にだけ残る国引き神話の国づくりの神話である。海の彼方から余った岬や島を引き寄せて、出雲の「初国」をつくったという有名な神話であるが、この仕事を一夜で完了したといっている。ー中略ーそして何よりも注目したいのは、このオミズヌ神はヤマトの貴族の神話では、さまざまな名前でよばれ、中には「国作神」=地方神とさえされるが、出雲を中心とした西日本地域では、天下づくりの神として長く伝承され続け、広く信仰された神である。この天下づくりの神と国づくりのオミズヌ神、両者を対極に置いた独自の神話体系が生まれていたと思われる。
オウの首長と出雲王国。以上、出雲東部の首長は、独自にトモの組織や独特の玉生産を集中したような支配体制、さらに独自の建国神話、こういうものをととのえ上げ、六世紀
半ばに至る以前にほぼ出雲全域にわたる支配体制を形成していたとみられる。それは、キビがヤマト国家との対立・抗争を強めたことからその影響力を弱めた五世紀後半いらいのことと思われるが、この体制は王国(地域国家)の条件をほぼととのえており、オウの首長はその王にほかならなかった」(門脇禎二「出雲からみた大和」:「図説検証、原像日本3古代を綾る地方文化」旺文社、1988)とされている。
それから吉備の国については、出雲・ヤマトの勢力、後のヤマ朝廷になる彼らは、互いに攻めたり攻められたりの戦いを繰り広げていたのではないか。後代に編集された『古事記』の大部分は、伝承による口述からのものである。したがって、神話の占める割合が多い。その第八巻「孝霊天皇」の下りでは、朝廷が播磨を通り過ぎて、吉備を攻めたことになっている。これをもって、吉備の国を平定したということではないだろう。
(続く)
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