新71『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展2

2016-10-01 14:57:24 | Weblog
71『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展2

 現実というものは、理論の支えがあってこそ現実味が増してくるものだ。その後は、アイザック・ニュートンによる重力の何たるかに思い到る。それまでのルネ・デカルトらによる説によると、宇宙にはある媒質が充満しており、それらが互いに押し合いへし合いしながら、力を伝え、この宇宙をぐるぐるした渦をなして回っている。これだと、空虚なる空間は存在しない。ニュートンは、そのようなデカルトの描く宇宙モデルを打ち破って、遠隔作用による力の伝搬を唱える。ちなみに、彼はりんごの落ちるのをみて、重力の法則を発見したのだと伝説でいわれている。1713年(正徳3年)刊行の『プリンキピア』(第二版)において、ニュートンは「重力は物体の質量に比例し、その効果は常に距離の二乗に反比例して現象しながら、広大無辺な空間のあるゆる方向に伝わっていくものなのである」と結論付けている。それからの科学は、その普遍性の力をもって発見宗教の枠を乗り越えて、あるいは踏み倒して前へと進んでいくことになってゆく。そして、科学が高度に発達するに至った21世紀現代の今、この地球に住む人類に属する一人ひとりは、はっきりと意識するとしないに関わらず、私たちのこの宇宙の加速膨脹が続けば、クラウス教授に従えば、およそ2兆年後には私たちの視界から、私たちが古代から眺め、親しんできた星空が焼失してしまうという、ドラマチックな寂寥の世界に入り込んでいくという予想を突きつけられているのである。
 もう一度教授に語ってもらおう。
 「今見えている銀河は、未来のある時点で、われわれからの後退速度が光速を超え、それ以降は見えなくなる。その銀河から出る光は、空間の膨脹に逆らってこちらに接近することができず、われわれのところにはけっして届かない。その銀河は、地平線の彼方に消えてしまうのだ。しかし、その消え方は、あなたが想像しているのとは少し違うかもしれない。銀河は夜空から突如として消え去るのではない。銀河の後退速度が光の速度に近づくにつれ、その銀河から届く光の赤方偏移は大きくなる。かつて人間の目に見える可視光線だったものは、波長が伸びて赤外線やマイクロ波や電波になり、いずれその波長は、宇宙のサイズよりも長くなる。そうなった時点で、その銀河は名実ともに姿を消すのである。
 そうなるまでの時間は計算することができる。われわれの銀河系が属する局部銀河団に含まれる銀河たちは、重力の働きでひとまとまりになっているため、ハッブルの発見した宇宙の膨張によって互いに遠ざかることはない。一方、われわれの局部銀河団のすぐ外側にある銀河たちは、われわれからの後退速度が光の速度になる距離の、五千分の一ほどのところに位置している。それらの銀河が、われわれから光速で後退する地点に到達するまでには、これから千五百億年ほどかかるだろう。それは、現在の宇宙の年齢のおよそ十倍に相当する時間である。その地点まで後退したとき、銀河に含まれる星が発する光のすべては、波長が五千倍ほどになっているだろう。二兆年ほど経てば、それらの星から出る光の波長は、赤方偏移のため、観測可能な宇宙のサイズほどの長さになるだろう。つまり、これから二兆年ほどで、局部銀河団に含まれる銀河を別にすれば、すべての天体が、文字通り姿を消すことになるのである」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか?」文藝春秋、2013)と。
 私たち地球上の植物や動物などが日々永らえ、かつ生命を子孫につなぐことができているのは、何よりも太陽からの光と熱があったのことであるが、その太陽は、いわゆる壮年期の40億歳くらいだと言われている。この先、中心部で燃えるものがなくなってゆき、外延部が途方もなく広がる段階になると、地球もそれにのみ込まれて、今の水星や金星のように昼間は「灼熱地獄」と化してしまうことに成りそうだ。しかし、そうなるまでにはこの先、少なくとも40億年も、50億年もの時間が遺されているのであって、今私たち人類がそのことを殊更に心配する必要はないのかもしれない。
 しかし、発生以来のたゆまざる進化によって人類は、一定程度の容積の発達脳を持ち得た。そして、直立歩行が重い脳を支えた。こうして人類は、はるか遠くの時空を見通すことでこそ、文明を発展させてきた、その点が地球上の他の生物たちと異なるところである。このことを踏まえると、かつて、ブレーズ・パスカルは、人間は自然の大きさに比べるべくもないが、自分がやがて滅びるであろうことを知っている、その点にこそ人間存在の尊さがあるとのことであった。彼の著書『パンセ』などから幾つか紹介すると、つぎのようだ。
 「人間は考える葦である。宇宙はこうしたことを何も知らない。ゆえによく考えることにしよう」、「人間は自然のなかで最も弱い、一本(ひともと)の葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一しずくの水でも人間を殺すには十分だ。しかしながら、たとえ宇宙が彼を押し潰そうとも、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬこと、また宇宙が自分よりも優れていることを知っているからだ。宇宙はそれについて何も知らない。」
 ほかにも、教えられる言葉が数々あるようで、あと少し紹介させていただく。 
 「我々は、考えられる限りの空間の彼方に想像を巡らしてみても無駄である。我々の生み出しえるものは、事物の実在に比べれば、原子でしかない。実在とは,至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体なのだ」、「結局自然の中において、人間とは何者なのか?無限と比べれば無、無に比べれば全体である。つまり無と全体の中間に位置しているのだ」、「自分の命のわずかな持続が、前後の永遠の間に挟まれていることを考えるとき、また自分がそこにいて見てもいるわずかな空間が、私が知らず私に縁のない無限の空間の中に沈みこんでいくことを考えるとき、わたしは恐れとおののきを感じ、自分が何故かしこにではなく、ここにいるのかと自問するのだ。わたしをここにおいたのは誰なのか?誰の命令、誰の指図によって、この場所とこの時間がわたしに割り当てられたのか」、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる」等々。
 パスカルが言いたかったのは、世界はルネ・デカルトが唱えたように人間の理性で完全に永久得られるものではなくて、人間の知には限りがあるのであって、私たちはその時々にわかっていることを頼りとしつつも、あとはその時その瞬間を、風が吹いたらその方向になびいてゆく葦の如く生きてゆくしかない、ということらしい。同時に彼は、人間はいつかは自分たちの文明がやがて滅びて、人間存在そのものがこの自然界からなくなってしまうことを知っているのであって、この認識からは無力に生きることにはならず、各々のかけがえのない命を精一杯生きて行きたまえ、ということになるのだろうか。
 クラウス教授がアリゾナ大学での大衆講義において示したものに、カッシーニという探査衛星が土星の裏側に入って撮った写真がある。この写真は、インターネットでも公開されている、それを観ると、土星から観て太陽のある方向に、はるかかなたに一つの青い点がなかばぼんやり写っていて、これが私たちの地球なのだといわれる。これをじっくりし眺めているうちに、なんだか透徹した気持ちに誘われるのは私だけであろうか。ここに誘われるとは、人間というものは大いなるものを体験した時には、あたかもその場に自分が居合わせて、その地球の姿を垣間観ながら、かけがえのない私たちの故郷がそこにある、と感じてのことであろう。そうとも、私たちがこのように感じるのは、この写真からも、地球とともにある人類は、その命が宇宙に比べればはかなく、頼りない存在であることを学ぶことができるからではないのだろうか。
 しかも、現代生理学の教えるところによると、人間の意識は脳から来る。それは、その脳のどこか一カ所に宿っているのではなく、多くの記憶とかが重層的に組み合わさった時に、そこから構造的に生まれてくるのと考えるのが理にかなっているようである。言い換えると、人の意識とかいうものは、脳内の膨大な細胞のつながりが有機的に働くことによって生まれてくる、と考えるようになっている。このようにして、人間存在にも小宇宙というものも呼べるものがあって、私たちの心の働きは、これを離れては存在しないのだと考えられている。
 そうであるなら、私たちは、いまこうしている間にも、宇宙の進化とともに、孤独への
行程をひたすら進んでいることになるのであって、自分の生きる意義を自分で積極的に見い出していくことが、なおのこと大切になるのだと思っている。どういう生き方が自分にとって適しているかは、最終的には自分の価値観に依拠して判断してゆくしかないのであるから、これからも宇宙の法則を知るということは、自分を探求し、形成していく道でもあると思われるのだが。

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新5の1『美作の野は晴れて』第一部、都会への憧れ

2016-10-01 14:06:02 | Weblog
5の1『美作の野は晴れて』第一部、都会への憧れ

 テレビの外国ものでは、さしあたり幾つかの番組の記憶が残っている。数ある外国番組の中でも、『保安官ワイアット・アープ(The Life and Legend of Wyatt Earp)』は圧巻だった。主題歌は、後の『OK牧場の決闘』ではない。もっと静かな曲調で、現在でもインターネットでさわりの部分を試聴することができる。はじめに「ワイアット・アープ、ワイアット・アープ」とあって、続きの文句は、いまだに英語が苦手な私の耳で繰り返し聞いてもはっきりしない。主演の男優はヒュー・オブライエンであった。彼は長身でいて、ニヒルな上にハンサムときている。それでいて心憎いほど女性に対して紳士的なところがあって、全体的にも善良な人達に優しいアープを演じていた。歩く時には少し腰をひねり気味に歩いているようであった。腰に提げている長めの、どっしりした拳銃のせいかもしれない。彼の仕草のあれもこれもが格好良くて、憧れの的であった。
 話の筋は、拳銃の撃ち合いばかりではなかったので、興味深く観賞させてもらっていた。時は19世紀のアメリカの西部開拓時代、その主な活躍の場所はアリゾナ州のトムスンであった。図書館に行けば、その町の写真を観ることができるだろう。それには、あちこちからの荷馬車でごったがえし、方々からの男たちで賑わっている、埃っぽい、その当時の町の目抜き通りが写っている。実際のアープはなかなかの生き方上手で、「清濁併せ呑む」類であったらしい。後には保安官を辞め、カリフォルニアに移って比較的裕福な晩年を過ごしたようだ。もっとも、そのことはずっと後に知ったことで、当時は露ほども知らなかった。夜9時以降の放映(1961~65年)だったかどうかは覚えていない。1回当たり30分のテレビでの放映全てを、テレビの前に正座して、まるで食い入るように観賞したものだ。
 『名犬ラッシー』も、毎回のように楽しんで観ていたのではないか。舞台としては19世紀のイギリス、空気以外はただではなさそうなロンドンなどの都会ではなかった。たぶん南部のヨークシャーかどこかの田舎のごく普通の少年のいる家庭において、この犬は大事に飼われていた。そのラッシーがどうしたことか、自分の飼われている家庭が貧乏なため、ある時裕福な貴族の家にもらわれていく。行き場所は、スコットランドにあるその買主の別荘であったのではないか。ラッシーはそこで大事に扱われていたのだが、昔のことが忘れられない。そこである日、宿所を抜け出して、はるばる南部のヨークシャーの昔の家を目指して旅する。今更昔の楽しげな思い出を懐かしんでどうなるんだ、しっかり前を向けとも思われるのだが、ラッシーは怯まない。頭のどこかの引き出しにしまわれていた記憶が何かの拍子に引き出されて、脳裏にひょいと浮かんでくるのだから仕方がないではないか。一番の気に入りのシーンは、買われていく前のことなのかもしれないものの、どこかの草原に出ていて、主人公の何とかいう少年が「ラッシーッ」と大声で呼ぶ。すると、主人を振り返ったラッシーが一瞬の間に踵(くびす)を返し、カメラを構える側に跳びはねるようにぐんぐんと走り寄って来る。少年が膝を降ろしてそれを待ち構える。そして、ラッシーが主人公のところにやって来て、少年に抱きつく。実に感動的なシーンだ。
 『コンバット(Combat)』は戦争物である。こちらは、1963年(昭和38年)から67年(42年)までコンバットが放映されていた。サンダース軍曹が「リトルジョン、カービーついてこい。ドイツ兵の後ろに回るんだ」などという。作戦が実施される。機関銃がうなる。手榴弾が炸裂する。それで相手が粉砕されてその回の放映が終わるというのが、大体の筋書きだったように思う。
 相手方のドイツ軍の作戦内容とかの事情や作戦はほとんどお構いなしで、アメリカ軍主体の動きで話がどんどん進んでいく。戦線の大きな状況を教えてくれるのは稀で、それが全体のどんな戦いなのかほとんどわからずじまいだった。子供心に残ったのは、とにかく双方の兵士たちが銃撃や爆弾を受けてはバダバタと倒れ、死んでいく。人間はどうしてこんなに殺し合わねばいけないのだろうということ、そのことであった。時々であるが、いやな感情がこみ上げてきた。でも、なぜアメリカとドイツが戦争しているかの原因をたぐり寄せるには至らなかったといっていい。
 カウボーイもので『ローハイド『』(「皮の鞭」の意味)というキャトル・ドライブを扱った劇画も放映されていた。その曲は、“Rollin', Rollin', Rollin'”とのかけ声で始まる。そして最後は、“Rawhide!”と長く伸ばして声を張り上げる。それからも、威勢のよいかけ声と鞭の音やらを織り交ぜつつ、どんどん曲がすすんでいく。
 そして、やや曲のテンポが変わって、次のところで佳境にさしかかる。
“Don't try to understand them,
(彼らの気持ちをわかろうなんて考えるな)
Just rope and throw and brand 'em,
(ロープを投げてわからせてやれ。)
Soon we'll be living high and wide!
(もうすぐ俺たちは、よくて気ままな暮らしができる!)
My heart's calculating,
(胸に手を当てよく考えてみれば、)
My true love will be waiting,
(私には心から愛する人が待ってくれている、)
Be waiting at the end of my ride.
(この旅の終わりまで待てば、)
Move 'em on, hit 'em up, hit 'em up, move 'em on
Move 'em on, hit 'em up, Rawhide
Cut 'em out, ride 'em in, ride 'em im,
(切り離せ、割り込ませろ、)
let 'em out, cut 'im out, Ride on in, Rawhide!
H'yah! H'yah!”(日本語は拙訳)
となって、終幕へと向かっていく。
 この歌の最初の「ローリン」の3回連呼と、最後の「ローハーーーイド」というところが、すこぶる快い。最初の「ローリン」の連呼とともに、自分は緩やかな傾斜のある大平原の只中にいて、馬を走らせ、仲間とともに牛の群れを先へ先へと誘導している姿が自分にも乗り移る。その勇姿というか、荒ぶる男達の移動する仕事場を朝の太陽が照り輝かせつつある。愉快だ、しかし過酷な労働だ。追体験などまるでないのに、まるでそこに馬に乗った自分がいて、牛を追っているかのような臨場感があった。途中でなにやらムチの音が入ったりして、畳重ねるようなリズムとともに心に響いてくる。さっそく、身振りと手振りよろしく、その真似をして悦に入っていく。ただし、同調して歌うには歌詞が難解かつテンポが速すぎることから、諦めざるをえなかった。
 番組では、テキサスからアリゾナまで「際限のない」ような遠い道のりを、6人の男たちが何千頭もの牛の群れを追っていく。そのルートを自分で確かめようと、地図帳まで動員したりでしらべてみたものの、わからずじまいで、途中で「まあいいや」となったのではないか。何しろ「ローハイド」というだけのことはあって、3か月から6ヶ月もかかる長旅だ。昼は牛泥棒や「コヨウテ」(オオカミの一種か)などの襲来で油断がならない。夜は夜で、コヨウテが鳴くなかで、牛を寝かしつけなければならない。臆病な牛たちが暴走をはじめたら止めようがないからだ。そこで彼らの楽しみは、日没後の熱い一杯のコーヒーと、たまにゆきづりの町で交代で出かけるバーで呑むウイスキー、さらに夜明けを待たずに仲間と入れて飲む、この日初めてのコーヒーといったところだったろうか。最後の「ローハーーーイド」のところは、主人公たちが牛に鞭を当てながら、自分たちの生き様を力一杯アピールしている。そんな堂々としたような印象を与えられて、テレビの画面から伝わってくるそのど迫力に私も鼓舞され、曲の最後の方では、周囲をはばかって小さな声に努めつつ、息を吐き切る程の小さな「雄叫び」を絞り出すのであった。
 その頃の私にとって、一番の楽しみは歌うことであった。個々の中の心象風景においては、ちょうど、その頃の祖母が時折、「田植え歌」らしきものを口ずさみつつ、家事をしているのと大して違わなかったのかもしれない。といっても、楽譜が読める訳でもない。ただ心地よいのだったし、それまで聞いたことのないメロデイーが耳に入ると、それだけで「ふむ、これは何だろうか」と「知りたい」と興味をそそられる。聞いているばかりでは面白くない。覚え立ての歌を、少しずつなぞって、とにかく歌ってみよう。それでこそ、その歌と自分が同化している感じがしてくる。それだけでなにやら、「気」というか、何かしら体の外に出て行くものが感じられる。一人ながら、それですっきりして元気になったり、爽やかな気分になったりするものだから、不思議だ。
 1967年(昭和37年)のレコード大賞は、ブルーコメッツの『ブルーシャトウ』であった。当時、私は小学四年生になっていた。その曲の出だしは「森と泉に囲まれて」となっていて、山と谷に囲まれ、平野が狭い日本の景色にはふさわしくない。異国情緒に溢れたその調べが流れ始める。すると、社会の授業で習った北欧の「フィヨルド」か何かの、涼しげというよりは、何かしら暦の上では夏でも冷たさを感じさせる風景が浮かんできていた。この作品に込められたメッセージが何であるかは、残念ながら知らない。今でも、歌詞だけは頭に畳み込まれていて、いつでもどこでも、記憶の引き出しから引き出すことができる。
 とにかく、グループのスマートな体に燕尾服の格好が良かった。洗練された大人のムードがかもし出されていた。それまでのいろんな歌にはない、エキゾチックな雰囲気が感じられた。そういうことなので、体というものは嘘をつかない。その透き通るような曲想に惹かれていったのは、自分にとって自然の成り行きであったろう。
ここで「栄光の」グループサウンズからもう一曲、記憶をたぐり寄せてみたい。ザタイガースの『花の首飾り』だった。「花咲く 娘たちは」に始まり、物語調に進んでいく。愛の印の「ヒナギク」の「花の首かざり」を「私の首に かけておくれよ」という下りになると、子供ながらになぜか切なくなってきたものだ(菅原房子・なかにし礼作詞、すぎやまこういち作曲)。花の首飾りとなると、あるハワイに咲く「プルメリア」の、あの淡い赤と白のコントラストの、かぐわしい臭いを発する花が思い浮かぶ。その歌詞にある「ひなぎく」もその類なのだろうか。
 グループサウンズの曲の良さの一つに、私は「間奏」を挙げたい。ブルーコメッツでいえば、ボーカルの人がフルートかピッコロらしきものを吹くのだが、それが異国情緒に包まれるようで心地よかった。まるで、北欧のフィヨルド(凍結した海岸線)のような、湖と針葉樹林のような光景が浮かんでくる。クラシックの曲に例えて申し訳ないが、北欧のグリーグの曲を聴いているような透明感がたまらない。一方、『花の首かざり』は、おかっぱ頭のボーカルの人を中心にハミングしながら謳っているような案配で、えもいわれぬ、なんというか、暖かい雰囲気をかもしだしていたのに惹かれた。
 気に入った曲目は、反芻しているうちに自然と覚えられたから不思議だ。一度覚えると、今度は歌ってみたいことになり、一人で歩いているときなど、自然に口ずさむようになるものだ。学校から換えるときはなにやら開放感があった、家に帰る途中、友達と別れてからは1人のときが多いので、この曲もレパートリーに加えつつ、歌いながら下校したものである。
 音楽番組以外にも、いろんな番組を見ていた。その頃の我が家でテレビのスイッチを入れるのは、夕ご飯後のひとときであって、大相撲とか高校野球は時間帯が合わない。ブロ野球、プロレス、それから大河ドラマなどを家族と一所に観ていた。その中でも、大河ドラマやプロレスはみんなで見ていた。力道山の「空手チョップ」には、父も「やれえ、やっちゃれえ」などと、体を何度も揺り動かして応援していた。力道山がどのような少年時代を送ったかについては、20代になって神戸で生活するようになってから、当時の日本と朝鮮との時代背景とともに知った。それを観ている者の心構えとしては、心に太陽を抱け、ということであったのだろうか。
 その他にも、NHKの大河ドラマの代表格は、なんと言っても、長谷川一夫主演の『忠臣蔵』であったろう。彼の「おのおのがた」という時の口の動かし方には、何というか、独特の趣があって、「やっぱり頭領というのは、ああでないといけないのかな」と、自分もその時代にタイムスリップしてような気分で「いかにも」と感心したものだ。

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