71『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展2
現実というものは、理論の支えがあってこそ現実味が増してくるものだ。その後は、アイザック・ニュートンによる重力の何たるかに思い到る。それまでのルネ・デカルトらによる説によると、宇宙にはある媒質が充満しており、それらが互いに押し合いへし合いしながら、力を伝え、この宇宙をぐるぐるした渦をなして回っている。これだと、空虚なる空間は存在しない。ニュートンは、そのようなデカルトの描く宇宙モデルを打ち破って、遠隔作用による力の伝搬を唱える。ちなみに、彼はりんごの落ちるのをみて、重力の法則を発見したのだと伝説でいわれている。1713年(正徳3年)刊行の『プリンキピア』(第二版)において、ニュートンは「重力は物体の質量に比例し、その効果は常に距離の二乗に反比例して現象しながら、広大無辺な空間のあるゆる方向に伝わっていくものなのである」と結論付けている。それからの科学は、その普遍性の力をもって発見宗教の枠を乗り越えて、あるいは踏み倒して前へと進んでいくことになってゆく。そして、科学が高度に発達するに至った21世紀現代の今、この地球に住む人類に属する一人ひとりは、はっきりと意識するとしないに関わらず、私たちのこの宇宙の加速膨脹が続けば、クラウス教授に従えば、およそ2兆年後には私たちの視界から、私たちが古代から眺め、親しんできた星空が焼失してしまうという、ドラマチックな寂寥の世界に入り込んでいくという予想を突きつけられているのである。
もう一度教授に語ってもらおう。
「今見えている銀河は、未来のある時点で、われわれからの後退速度が光速を超え、それ以降は見えなくなる。その銀河から出る光は、空間の膨脹に逆らってこちらに接近することができず、われわれのところにはけっして届かない。その銀河は、地平線の彼方に消えてしまうのだ。しかし、その消え方は、あなたが想像しているのとは少し違うかもしれない。銀河は夜空から突如として消え去るのではない。銀河の後退速度が光の速度に近づくにつれ、その銀河から届く光の赤方偏移は大きくなる。かつて人間の目に見える可視光線だったものは、波長が伸びて赤外線やマイクロ波や電波になり、いずれその波長は、宇宙のサイズよりも長くなる。そうなった時点で、その銀河は名実ともに姿を消すのである。
そうなるまでの時間は計算することができる。われわれの銀河系が属する局部銀河団に含まれる銀河たちは、重力の働きでひとまとまりになっているため、ハッブルの発見した宇宙の膨張によって互いに遠ざかることはない。一方、われわれの局部銀河団のすぐ外側にある銀河たちは、われわれからの後退速度が光の速度になる距離の、五千分の一ほどのところに位置している。それらの銀河が、われわれから光速で後退する地点に到達するまでには、これから千五百億年ほどかかるだろう。それは、現在の宇宙の年齢のおよそ十倍に相当する時間である。その地点まで後退したとき、銀河に含まれる星が発する光のすべては、波長が五千倍ほどになっているだろう。二兆年ほど経てば、それらの星から出る光の波長は、赤方偏移のため、観測可能な宇宙のサイズほどの長さになるだろう。つまり、これから二兆年ほどで、局部銀河団に含まれる銀河を別にすれば、すべての天体が、文字通り姿を消すことになるのである」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか?」文藝春秋、2013)と。
私たち地球上の植物や動物などが日々永らえ、かつ生命を子孫につなぐことができているのは、何よりも太陽からの光と熱があったのことであるが、その太陽は、いわゆる壮年期の40億歳くらいだと言われている。この先、中心部で燃えるものがなくなってゆき、外延部が途方もなく広がる段階になると、地球もそれにのみ込まれて、今の水星や金星のように昼間は「灼熱地獄」と化してしまうことに成りそうだ。しかし、そうなるまでにはこの先、少なくとも40億年も、50億年もの時間が遺されているのであって、今私たち人類がそのことを殊更に心配する必要はないのかもしれない。
しかし、発生以来のたゆまざる進化によって人類は、一定程度の容積の発達脳を持ち得た。そして、直立歩行が重い脳を支えた。こうして人類は、はるか遠くの時空を見通すことでこそ、文明を発展させてきた、その点が地球上の他の生物たちと異なるところである。このことを踏まえると、かつて、ブレーズ・パスカルは、人間は自然の大きさに比べるべくもないが、自分がやがて滅びるであろうことを知っている、その点にこそ人間存在の尊さがあるとのことであった。彼の著書『パンセ』などから幾つか紹介すると、つぎのようだ。
「人間は考える葦である。宇宙はこうしたことを何も知らない。ゆえによく考えることにしよう」、「人間は自然のなかで最も弱い、一本(ひともと)の葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一しずくの水でも人間を殺すには十分だ。しかしながら、たとえ宇宙が彼を押し潰そうとも、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬこと、また宇宙が自分よりも優れていることを知っているからだ。宇宙はそれについて何も知らない。」
ほかにも、教えられる言葉が数々あるようで、あと少し紹介させていただく。
「我々は、考えられる限りの空間の彼方に想像を巡らしてみても無駄である。我々の生み出しえるものは、事物の実在に比べれば、原子でしかない。実在とは,至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体なのだ」、「結局自然の中において、人間とは何者なのか?無限と比べれば無、無に比べれば全体である。つまり無と全体の中間に位置しているのだ」、「自分の命のわずかな持続が、前後の永遠の間に挟まれていることを考えるとき、また自分がそこにいて見てもいるわずかな空間が、私が知らず私に縁のない無限の空間の中に沈みこんでいくことを考えるとき、わたしは恐れとおののきを感じ、自分が何故かしこにではなく、ここにいるのかと自問するのだ。わたしをここにおいたのは誰なのか?誰の命令、誰の指図によって、この場所とこの時間がわたしに割り当てられたのか」、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる」等々。
パスカルが言いたかったのは、世界はルネ・デカルトが唱えたように人間の理性で完全に永久得られるものではなくて、人間の知には限りがあるのであって、私たちはその時々にわかっていることを頼りとしつつも、あとはその時その瞬間を、風が吹いたらその方向になびいてゆく葦の如く生きてゆくしかない、ということらしい。同時に彼は、人間はいつかは自分たちの文明がやがて滅びて、人間存在そのものがこの自然界からなくなってしまうことを知っているのであって、この認識からは無力に生きることにはならず、各々のかけがえのない命を精一杯生きて行きたまえ、ということになるのだろうか。
クラウス教授がアリゾナ大学での大衆講義において示したものに、カッシーニという探査衛星が土星の裏側に入って撮った写真がある。この写真は、インターネットでも公開されている、それを観ると、土星から観て太陽のある方向に、はるかかなたに一つの青い点がなかばぼんやり写っていて、これが私たちの地球なのだといわれる。これをじっくりし眺めているうちに、なんだか透徹した気持ちに誘われるのは私だけであろうか。ここに誘われるとは、人間というものは大いなるものを体験した時には、あたかもその場に自分が居合わせて、その地球の姿を垣間観ながら、かけがえのない私たちの故郷がそこにある、と感じてのことであろう。そうとも、私たちがこのように感じるのは、この写真からも、地球とともにある人類は、その命が宇宙に比べればはかなく、頼りない存在であることを学ぶことができるからではないのだろうか。
しかも、現代生理学の教えるところによると、人間の意識は脳から来る。それは、その脳のどこか一カ所に宿っているのではなく、多くの記憶とかが重層的に組み合わさった時に、そこから構造的に生まれてくるのと考えるのが理にかなっているようである。言い換えると、人の意識とかいうものは、脳内の膨大な細胞のつながりが有機的に働くことによって生まれてくる、と考えるようになっている。このようにして、人間存在にも小宇宙というものも呼べるものがあって、私たちの心の働きは、これを離れては存在しないのだと考えられている。
そうであるなら、私たちは、いまこうしている間にも、宇宙の進化とともに、孤独への
行程をひたすら進んでいることになるのであって、自分の生きる意義を自分で積極的に見い出していくことが、なおのこと大切になるのだと思っている。どういう生き方が自分にとって適しているかは、最終的には自分の価値観に依拠して判断してゆくしかないのであるから、これからも宇宙の法則を知るということは、自分を探求し、形成していく道でもあると思われるのだが。
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現実というものは、理論の支えがあってこそ現実味が増してくるものだ。その後は、アイザック・ニュートンによる重力の何たるかに思い到る。それまでのルネ・デカルトらによる説によると、宇宙にはある媒質が充満しており、それらが互いに押し合いへし合いしながら、力を伝え、この宇宙をぐるぐるした渦をなして回っている。これだと、空虚なる空間は存在しない。ニュートンは、そのようなデカルトの描く宇宙モデルを打ち破って、遠隔作用による力の伝搬を唱える。ちなみに、彼はりんごの落ちるのをみて、重力の法則を発見したのだと伝説でいわれている。1713年(正徳3年)刊行の『プリンキピア』(第二版)において、ニュートンは「重力は物体の質量に比例し、その効果は常に距離の二乗に反比例して現象しながら、広大無辺な空間のあるゆる方向に伝わっていくものなのである」と結論付けている。それからの科学は、その普遍性の力をもって発見宗教の枠を乗り越えて、あるいは踏み倒して前へと進んでいくことになってゆく。そして、科学が高度に発達するに至った21世紀現代の今、この地球に住む人類に属する一人ひとりは、はっきりと意識するとしないに関わらず、私たちのこの宇宙の加速膨脹が続けば、クラウス教授に従えば、およそ2兆年後には私たちの視界から、私たちが古代から眺め、親しんできた星空が焼失してしまうという、ドラマチックな寂寥の世界に入り込んでいくという予想を突きつけられているのである。
もう一度教授に語ってもらおう。
「今見えている銀河は、未来のある時点で、われわれからの後退速度が光速を超え、それ以降は見えなくなる。その銀河から出る光は、空間の膨脹に逆らってこちらに接近することができず、われわれのところにはけっして届かない。その銀河は、地平線の彼方に消えてしまうのだ。しかし、その消え方は、あなたが想像しているのとは少し違うかもしれない。銀河は夜空から突如として消え去るのではない。銀河の後退速度が光の速度に近づくにつれ、その銀河から届く光の赤方偏移は大きくなる。かつて人間の目に見える可視光線だったものは、波長が伸びて赤外線やマイクロ波や電波になり、いずれその波長は、宇宙のサイズよりも長くなる。そうなった時点で、その銀河は名実ともに姿を消すのである。
そうなるまでの時間は計算することができる。われわれの銀河系が属する局部銀河団に含まれる銀河たちは、重力の働きでひとまとまりになっているため、ハッブルの発見した宇宙の膨張によって互いに遠ざかることはない。一方、われわれの局部銀河団のすぐ外側にある銀河たちは、われわれからの後退速度が光の速度になる距離の、五千分の一ほどのところに位置している。それらの銀河が、われわれから光速で後退する地点に到達するまでには、これから千五百億年ほどかかるだろう。それは、現在の宇宙の年齢のおよそ十倍に相当する時間である。その地点まで後退したとき、銀河に含まれる星が発する光のすべては、波長が五千倍ほどになっているだろう。二兆年ほど経てば、それらの星から出る光の波長は、赤方偏移のため、観測可能な宇宙のサイズほどの長さになるだろう。つまり、これから二兆年ほどで、局部銀河団に含まれる銀河を別にすれば、すべての天体が、文字通り姿を消すことになるのである」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか?」文藝春秋、2013)と。
私たち地球上の植物や動物などが日々永らえ、かつ生命を子孫につなぐことができているのは、何よりも太陽からの光と熱があったのことであるが、その太陽は、いわゆる壮年期の40億歳くらいだと言われている。この先、中心部で燃えるものがなくなってゆき、外延部が途方もなく広がる段階になると、地球もそれにのみ込まれて、今の水星や金星のように昼間は「灼熱地獄」と化してしまうことに成りそうだ。しかし、そうなるまでにはこの先、少なくとも40億年も、50億年もの時間が遺されているのであって、今私たち人類がそのことを殊更に心配する必要はないのかもしれない。
しかし、発生以来のたゆまざる進化によって人類は、一定程度の容積の発達脳を持ち得た。そして、直立歩行が重い脳を支えた。こうして人類は、はるか遠くの時空を見通すことでこそ、文明を発展させてきた、その点が地球上の他の生物たちと異なるところである。このことを踏まえると、かつて、ブレーズ・パスカルは、人間は自然の大きさに比べるべくもないが、自分がやがて滅びるであろうことを知っている、その点にこそ人間存在の尊さがあるとのことであった。彼の著書『パンセ』などから幾つか紹介すると、つぎのようだ。
「人間は考える葦である。宇宙はこうしたことを何も知らない。ゆえによく考えることにしよう」、「人間は自然のなかで最も弱い、一本(ひともと)の葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一しずくの水でも人間を殺すには十分だ。しかしながら、たとえ宇宙が彼を押し潰そうとも、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬこと、また宇宙が自分よりも優れていることを知っているからだ。宇宙はそれについて何も知らない。」
ほかにも、教えられる言葉が数々あるようで、あと少し紹介させていただく。
「我々は、考えられる限りの空間の彼方に想像を巡らしてみても無駄である。我々の生み出しえるものは、事物の実在に比べれば、原子でしかない。実在とは,至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体なのだ」、「結局自然の中において、人間とは何者なのか?無限と比べれば無、無に比べれば全体である。つまり無と全体の中間に位置しているのだ」、「自分の命のわずかな持続が、前後の永遠の間に挟まれていることを考えるとき、また自分がそこにいて見てもいるわずかな空間が、私が知らず私に縁のない無限の空間の中に沈みこんでいくことを考えるとき、わたしは恐れとおののきを感じ、自分が何故かしこにではなく、ここにいるのかと自問するのだ。わたしをここにおいたのは誰なのか?誰の命令、誰の指図によって、この場所とこの時間がわたしに割り当てられたのか」、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる」等々。
パスカルが言いたかったのは、世界はルネ・デカルトが唱えたように人間の理性で完全に永久得られるものではなくて、人間の知には限りがあるのであって、私たちはその時々にわかっていることを頼りとしつつも、あとはその時その瞬間を、風が吹いたらその方向になびいてゆく葦の如く生きてゆくしかない、ということらしい。同時に彼は、人間はいつかは自分たちの文明がやがて滅びて、人間存在そのものがこの自然界からなくなってしまうことを知っているのであって、この認識からは無力に生きることにはならず、各々のかけがえのない命を精一杯生きて行きたまえ、ということになるのだろうか。
クラウス教授がアリゾナ大学での大衆講義において示したものに、カッシーニという探査衛星が土星の裏側に入って撮った写真がある。この写真は、インターネットでも公開されている、それを観ると、土星から観て太陽のある方向に、はるかかなたに一つの青い点がなかばぼんやり写っていて、これが私たちの地球なのだといわれる。これをじっくりし眺めているうちに、なんだか透徹した気持ちに誘われるのは私だけであろうか。ここに誘われるとは、人間というものは大いなるものを体験した時には、あたかもその場に自分が居合わせて、その地球の姿を垣間観ながら、かけがえのない私たちの故郷がそこにある、と感じてのことであろう。そうとも、私たちがこのように感じるのは、この写真からも、地球とともにある人類は、その命が宇宙に比べればはかなく、頼りない存在であることを学ぶことができるからではないのだろうか。
しかも、現代生理学の教えるところによると、人間の意識は脳から来る。それは、その脳のどこか一カ所に宿っているのではなく、多くの記憶とかが重層的に組み合わさった時に、そこから構造的に生まれてくるのと考えるのが理にかなっているようである。言い換えると、人の意識とかいうものは、脳内の膨大な細胞のつながりが有機的に働くことによって生まれてくる、と考えるようになっている。このようにして、人間存在にも小宇宙というものも呼べるものがあって、私たちの心の働きは、これを離れては存在しないのだと考えられている。
そうであるなら、私たちは、いまこうしている間にも、宇宙の進化とともに、孤独への
行程をひたすら進んでいることになるのであって、自分の生きる意義を自分で積極的に見い出していくことが、なおのこと大切になるのだと思っている。どういう生き方が自分にとって適しているかは、最終的には自分の価値観に依拠して判断してゆくしかないのであるから、これからも宇宙の法則を知るということは、自分を探求し、形成していく道でもあると思われるのだが。
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