○○487『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(早期健全化法)

2016-10-10 13:24:40 | Weblog

487『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(早期健全化法)

 もう一つの早期健全化法は破たん前の処理をねらったものです。その基本な仕組みとしては、銀行など金融機関の経営が悪化して、自己資本比率が適正水準を割り込んだ場合に、一定の条件のもとに、公的資金を注入して債権する、というものです。国際基準の8%を下回っているものの、4%以上はキープしている銀行(国内基準では4%未満2%以上)が「過小資本銀行」と名付けられて一つのグループ。
 次いで、同4%未満2%以上(同2%未満1%以上)は「著しい過小資本銀行」となって二つ目のグループ、さらに2%未満(同1%未満)に至っては「特に著しい過小資本銀行」と烙印を押されて3つ目のグループに区分されます。このグループの更に下は「0%未満」ということになって、債務超過となって、これは破たん金融機関となってしまいます。
 同法(早期健全化法)による資本注入の条件は一応定められているものの、なぜか空虚な響きがあります。「過小資本銀行」に対しては、①行員数や経費の抑制による経営合理化②役員数削減による経営体制の刷新③配当や役員賞与の抑制、などを求める。これが2つ目の「著しい」という枕詞が付くと、①代表取締役の退任、給与体系の見直し、海外事業からの撤退などの組織業務の見直しをすべて含む経営の抜本改革②配当や役員賞与の禁止③弁護士などで組織する調査委員会の設置など、経営責任明確かのための取り組みなどが盛り込まれています。
 さらに「特に著しい」という枕詞を付された銀行に対しては、2つ目の銀行に要求される要件に加えて、「その銀行の存続が地域経済のなかで必要不可欠な場合」という要件が加わります。そうして、速やかな増資か、合併や他の銀行への営業譲渡、大規模な業務の縮小、さらには自主廃業という選択枝のなかから対応を選ぶことが要求されます。のみならず、場合によっては金融再生委員会の判断によって実質的な破たん処理に入ることもありえます。
 一方、同基準8%以上を満たしている「健全銀行」に対しては、①破たん銀行の受け皿となる場合、②急激で大幅な信用収縮を避ける場合、③合併とか再編に必要な場合に限って、公的資金が注入できることとなる。その際の条件としては、①役員数や経費の抑制による経営合理化、②配当や役員賞与の抑制などが求められているのみあった。これでは、自己責任の原則が甚だしくはずれており、あきれて開いた口がふさがらない。
 この新たな仕組み(早期健全化法)を使って、金融再編のドラマがさらに進展してゆく。1998年10月23日には長期信用銀行(現在:新生銀行)が破綻した。これは、金融再生法の特別公的管理、つまり国有化条項の適用が問題になる。さしあたり長期信用銀行の破たんに対応するがために3つ目の自己資本比率0~2%のゾーンが、98年4月早期是正処置導入時の4区分導入に加えて上積みされたというのが実際のところだろう。
 具体的には、長期信用銀行が債務超過であることを理由に「破たん銀行」(金融再生法第36条)として扱うか、それとも「破たんしていない銀行」(金融再生法第37条)として扱うか、すったもんだもめた。結局、金融監督庁の7月13日から約1か月間の検査結果により債務超過が白日に晒されたことが相俟って、同36条の破たん銀行処理に落ち着いた。
 日本債券信用銀行は98年秋の当局検査で900億円超の債務超過に陥り、12月に破綻しました。いずれも春の時点では政府は「まだ債務超過に陥っておらず健全な銀行である」と太鼓判を押していたものだ。銀行側もこれに呼応して真実を語ることにだんまりを決め込んだため、他の都市銀行と同時に公的資金注入を受けていたのですから、無責任体質のそしりを免れまい。
 預金保険法に基づく行政権限ということで、金融機関を職権で破綻処理するのは、98年の金融監督庁(年から金融庁)発足後では旧日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)が最初であった。続いて1999年4月に国民銀行が破綻、5月東京相和銀行が破綻、8月なみはや銀行が破綻、10月新潟中央銀行が破綻した。
 また1998年12月には金融システム改革法が施行される。銀行法、証券取引法、保険業法など22の金融関係の法律が一括して改訂された。具体的には、投資信託の銀行の窓口販売の解禁、会社型投資信託の解禁、株式売買委託手数料の自由化などを99年12月までに段階的に実施していくことになった。すでに5千万円超の売買については98年4月から自由化されていたのを無差別とするものあった。
 このような状況に対して、99年1月には自民党・自由党連立政権が発足しました。9年1月には金融再生委員会が運営の基本方針を発表しました。99年10月には公明党が相乗りして自民党・自由党・公明党政権が発足しました。2000年4月には自由党が連立を離脱、一部は保守党を結成して政権に残り、自公保連立内閣へ、その直後小渕氏が倒れ、森内閣が発足しました。2000年6月の総選挙では自公保は議席を減らしたものの、国会過半数は確保しました。7月になると、橋本氏が小渕派会長の後釜に座りました。
 金融再建はこの間も続けられ、日本長期信用銀行(略して「日長銀」、英語表示はLTCB)の譲渡先にリップルウッドが内定した。同行は、1998年に特別公的管理、つまり国有化になっていた。だが、この国有化のおり、同行が経営破綻(デフォルト)していたかにつき、国際金融の場で大問題になりかけていた。デリバティブには普通デフォルト条項が付いていて、信用がなくなったとなれば、同行が一方当事者であるデリバティブ商品の全てが清算に入る可能性があった。そのとき、日本銀行国際局が中心となって「LTCBはデフォルト状態ではない」とのメッセージを国際金融筋に送り続けて、急場を凌いだことがいわれる(例えば、志賀櫻氏の「タックス・ヘイブンー逃げていく税金」岩波新書、2013)。
 また、2000年6月になると、日債銀の譲渡先にソフトバンク連合が内定した。この2社いずれも特別公的管理、すなわち一時国有化に置かれた結果、投下された公的資金の一部は国家損失としてほぼ確定している。一方、国民、幸福、なみはや、東京相和の各銀行についてはブリッジバンクを利用して債務処理が行われた。99年3月には、大手銀行に対する2回目の公的資金が注入されたのだ。
 99年3月の資本注入は金融早期改善化法の枠組みで行われたもので、金融再生委員会が15の銀行にこれだけの資金を注入することは前代未聞の出来事であった。この場合の資金を国がどこから調達したかというと、それは民間の銀行から4兆円、残りの3兆5000億円は日本銀行から借りた、と言われる。
 これらの結果、大手17銀行と横浜銀行の99年3月末の自己資本比率は速報値で10%を超えました(「日経新聞99年4月1日付け)。10兆円規模の当時の不良債権を処理し、それで目減りした自己資本を公的資金で補った形。すなわち、「東京三菱10.0%、第一勧業10.9%、住友10.5%、三和11%、さくら12%、冨士11%、東海12.2%、あさひ11.4%、大和13.3%、日本興業11.1%、三菱信託10.9%、東洋信託14%、中央信託13%台半ば、三井信託15.1%、安田信託12%台後半、日本信託8%前後、横浜9.5%」となっている。98年9月末に比べると多くの銀行で1-4%程度上昇、海外業務からの撤退を表明している大和銀行や安田信託銀行についても国際決済銀行による8%基準をクリアするまでに漕ぎ付けた。
 これらの投入された公的資金は、もちろん銀行が資金を借りるに当たり提出した業務改善計画の提出と相俟って、5年から12年の間に国に返済しないといけない。しかし、倒産してしまえば別で、この場合は国の債権は貸し倒れになる懼れがあります。経営陣への責任追及やチェックについて徹底しないのではないかとの疑問も当初から出されていた。
 それから証券分野では、99年6月には東京地裁が山一証券に破産宣告し、残る大手3社(野村、日興、大和)を中心にその分シェアが肥え太る
ことになりました。続く1999年10月に「株式売買委託手数料」が自由化された。99年12月になると、越智金融再生委員長が信用組合にかぎりペイオフ解禁を延期すべきだと主張、これに相沢自民党金融問題調査会委員長もペイオフ解禁の延期を提案するに及んで、政府・与党がペイオフ解禁を全面的に2002年4月まで1年間延期すると決定した。生き残った資本の間で競争が再スタートしていた。
 1999年2月に日本銀行が打ち出したゼロ金利政策については、2001年3月19日時点で速水総裁の回顧が伝えられる。それによると、「99年2月は金融システムの不安が迫り、大銀行の破たんが迫るなか、所用の法律も整備されておらず、デフレスパイラルに陥る危機があった。その危機回避にはゼロ金利しかないと思ってやった。それはそれなりに効果があった。金融財政が同じに動いて危機回避できた。」と。」(拙ホームページ「戦後日本の政治経済社会の歩み」)

(続く)

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