15『岡山の今昔』倭の時代の吉備(鬼ノ城など)
また、この地の北方の山(現在の総社市)に大いなる「鬼ノ城」(きのじょう)と呼び慣わされた古代城趾がある。21世紀に入ってからの総社市や岡山県の発掘調査により、築造年代が7世紀の第4四半期に遡ること、石敷きの城門や土塁に守られた外郭線が張り巡らされていたことが明らかになってきた。
例えば、こんな風に紹介されている。
「鬼ノ城は標高約400メートルの鬼城山頂上一帯にある。7世紀後半に築城されたと推定される古代山城。実物大で復元された西門をはじめ、水門、礎石建築物などがあり、その周囲には高さ6メートルにも及ぶ土塁や石垣による城壁が約2.8キロにわたって続いている。」(「定年時代」2020年5月号)
では、この古代の城は、どのような目的で造られたのだろうか。これについては、この山城は、瀬戸内に沿った大和朝廷の防衛線の一つに位置づけられていたのではないか。その意義について、向井一雄氏は、こう述べておられる。
「外寇の危険が去った後もしばらく瀬戸内の山城群が維持・改修されていた理由として、吉備地域勢力との政治的決着一令制化推進があったとみたい。吉備中枢部に築かれた鬼ノ城は「有事籠城型」のプランを取りつつ、「視覚的効果」を狙った外郭線を持つ新時代型の山城として整備されており、上記施策の象徴的遺産といえよう。」(向井一雄「よみがえる古代山城」吉川弘文館、2017)
この地に城が築かれるいきさつが、白村江(はくすきのえ)の戦いの敗北後の外敵に対する防衛ラインに、直接に結びつくものであるかどうかは、わからない。それでもこの城が築かれたのには、倭(倭)朝廷にとって吉備国(きびのくに)を監視する必要があったことを覗わせるものではないか。
それ以外にも、この城は、当時から何かと伝承の多いことで知られていて、例えば、次のように紹介されているところだ。
「ボランティアガイドの根馬弘文さん(82)は、「一説には、製鉄や農耕技術などをもって吉備で栄える渡来人を抑え込むため、大和朝廷が吉備津山彦命(ぎびつひこのみこと)を派遣し、百済(すだら)の王子、温羅(うら)を滅ぼしたと伝えられています」と話す。」(「定年時代」2020年5月号)
あれは、2017年の秋のことだったのだろうか、友の話に麓の平野から遥かに見上げた限りでは、かなりの高さに稜線がなだらかに続いているようであった。
(続く)
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