◻️5『岡山の今昔』岡山の地質と水

2021-10-03 16:02:06 | Weblog

5『岡山の今昔』岡山の地質と水

 岡山の地層としては、何があるのだろうか。結論からいうと、実に様々なのだが、その中でも、やはり石灰岩が一番目に挙げられるのではないか。これは、生物の化石が海底にたまったものが石灰化し、地層化していった。それが地層変動により地表近くに出てきて、今日私たちの目に触れるものとなっている。

 岡山では、「三群帯」と呼ばれる、新潟県から佐賀県に至る長い帯状に石灰岩を含む地質構造が見られて、日本でも最も純度の高い石灰質を含むことで知られる。この帯に属する石灰岩の大規模な鉱床としては、山口県の秋吉台と並んで新見市の草間台地があり、これらは美しい「カルスト台地」「カルスト地形」を形成していることでも有名だ。

 ここにカルスト台地とは、石灰岩からなる台地をいう。主成分の炭酸カルシウムが雨水や地下水に溶解されやすくなっているため、鍾乳洞などのカルスト地形を形成する。
 付随して地下水は、カルシウム溶出のため、硬度が高くなる。なお、水中のカルシウムとマグネシウムの合計量を示す尺度にして、工業上は1リットル当たり100ミリグラム以下が軟水、同200ミリグラム以上が硬水、中間領域は通常硬水と呼ばれる。参考のため、一概に言えないものの、日本では軟水が主流であり、飲用ができるのが普通のようである。

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 二つ目には、この辺りは花崗岩の分布地帯の仲間入りをしている。わけても、岡山平野といえば、全体が旭川などの大河川が瀬戸内海へと流れ出る時、その侵食・土砂の堆積によって平坦地となり、また瀬戸内海近くでは、近世以降、干拓により新田開発などが進んだ。
 そうした印象がまず脳裏に浮かぶことから、この辺りの地形は全面的な平坦地を想像しがちだが、目を凝らして見ていくと、そこそこには特徴的な地形があり、地質ということでは花崗岩が広い範囲で分布している地帯ということになっている。
 それというのも、岡山県南部が含まれる山陽地方を経て、東へ向けて中央アルプスにいたるまでは、同じ種類の花崗岩がおよそ700キロメートルにわたって帯状に連なっているからだ。ちなみに、この長い帯状の花崗岩分布地帯を「山陽帯」と呼ぶ。
 
 そこで、「水の惑星、地球ならではの岩石」と呼ばれる花崗岩のでき方を見ておこう。こちらの概略としては、日本の辺り(日本列島がユーラシア大陸に張り付いていた当時は)には、ユーラシア大陸プレートに海洋プレートが沈み込んでおり、このときに海水の「水分」が潜り込み、その水分は岩盤の融点を下げる添加剤となり、地下のマントル(約40キロメートルの厚さがあると推定される地殻の下の、厚さが約2900キロメートルの岩石の層)を溶かして鉄(Fe)やマグネシウム(Mg)に富む玄武岩マグマ(地下のマントル上部にある岩石が溶けて生じた、高温で溶融状態にある造岩物質)を発生させ、火山を生成していく。そのマグマが赤いのは、千~千数百度(摂氏)という高温のため光を放っていることによる。

 こうなるのは、一説には、おそらく中世代最後の白亜期後期の火山フロントの地下深くに溜まった巨大なマグマ群が冷えて固まったからだと考えられている。
ちなみに、マグマ(液体)というのは 、マントル(固体)が 溶けてできる。 地球深部のマントルは 高温ながらも、高い圧力がかかっているので固体である。 高温のマントルが浅い場所に上昇すると 圧力が下がって液体 となる、これが マグマ である。 
 その一方で、火山フロント(前線)の地下に溜まってきていた一部のマグマは、地上に噴出せずに、地下30キロメートルあたりの日本の下部に張り付く。この張り付いた玄武岩は、マントルから追従してくる玄武岩マグマより熱と水分をもらいながら再び溶ける、すなわち溶融することでできたマグマが、その地下深くでゆっきり冷えて固まって花崗岩になると考えられている。
 あわせて、そうしてできる花崗岩に、水分を含む鉱物(黒雲母や角閃石)が普遍的に含まれており、そのでき方に「水」が大きく関わっていることがわかっている。

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 これとは別に、岡山は、山間部を中心に水にまつわる情報ご数多く寄せられる土地柄でもある。その一つ、県内随一クラスの名水ところ「塩釜の冷泉」(真庭市八束(やつか))を紹介しよう。

 「中国山地の蒜山(ひるぜん)三座の一つ、標高1112メートルの中蒜山(なかひるぜん)中腹に湧く水が、20坪ほどの青く透んだ池を形成しています。湧出量(ゆうしゅつりょう)は日に2万6000トン、常温11度で、清水にしか育たないヒルゼンノリと呼ばれる藻(も)の生息地としても知られます。池は、山頂に向けて楕円(だえん)が2つ連なるひょうたん形で、湧出口から流れ出る小川が、水汲み場になっています。(中略)地元では、水道、灌漑(かんがい)のほか、マスの養殖にも使用しています。」(カルチャーブックス編集部編「日本列島百名水」講談社、1997) 


(続く)

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◻️361『岡山の今昔』岡山人(19世紀、友山勝次)

2021-10-03 09:19:58 | Weblog
361『岡山の今昔』岡山人(19世紀、友山勝次)
 
 友山勝次(ともやまかつじ、1819~?)は、幕府の御家人である。1847年(弘化4年)には、西江原陣屋の代官として赴任してくる。この陣屋は、「御三卿」、一橋・徳川家10万石の知行所のうち、備中国3万3千5百石分を支配していた。
 この地域の沿革を述べれば、同家の1827年(文政10年)から明治維新までの領地であった。41年の間に、8人の代官が派遣され、友山は6代目代官を務める。     
 在任期間は 、1858年までのの約9年におよび、代官の中では最長にして、その間、農民・庶民の声に耳を傾け、地元の庄屋など有力者から実情を探る姿勢をとり、人気を博す。代官なので、一橋家の政策の代弁者の側面は拭えなかったろう。それにしても、地域の現状をつぶさに把握し、その時代にあった政策を行うよう心掛けたのは、偉大だ。
 主な仕事としては、(一)門田村大谷山の開墾、(二)興譲館の設立(1853(嘉永6))、これは、庶民子弟の教育のため。(三)産物会所並交易所の設置・切手札発行、(四)各種産業奨励、(五)日芳橋の架設などが挙げられよう。
 みられるように、経済、産業、教育のあらゆる分野で業績を上げている。社会とは生き物、その方面に熟達の者がいかに精出すといえども、なかなかにして、できるものではあるまいに。1858年(安政5年)に代官職を解かれ、阪谷朗廬らに別れを惜しまれつつ江戸に帰る。 
 近代の井原の基礎をつくりあげた人物の一人として、岡山の地で語り継がれている。なぜそれほどまでに、との疑問に対し、柴田一氏は、次のように概括している。

 「病身の友山が、十余年の在職期間にこれだけの仕事が出来たのは、彼がよく信ずべきものを信じ、その手腕を発揮させたからである。陣屋役人には角田米三郎があり、また郡中には、後に産物会所の会所詰に任用される有能な村役人たちがあった。彼らの学識や経営手腕を存分に発揮させたことが、その偉業を成さしめたといえる。」(柴田一「吉備の歴史に輝く人々」吉備人出版、2007)

 なお、門田町には、大谷山開墾碑が建てられているとのこと。

(続く

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