□11『岡山の今昔』弥生時代の吉備

2021-10-04 22:47:35 | Weblog

11『岡山の今昔』弥生時代の吉備

ところが、その当該の国が、3世紀を知る中国の史書『魏志倭人伝』で挙げられる三十余国中のどの国であったのか、当時の「邪馬台国」という連合国家の一員であったのか、そのことを特定することがかなわないままなのだ(ただし、諸説は寄せられている)。

 とはいえ、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)にかけては、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。
 それと、貝殻山遺跡の貝塚周辺には弥生時代と見られる遺跡も点在していることだ。具体的な遺物・遺構としては、少なくとも6棟の竪穴式住居や貝塚、分銅形土製品などが発見されている。これまでの発掘調査では、縄文文化と弥生文化との間に連続は認められないようである。

こうした弥生時代の遺跡の特徴としては、「方形周溝墓」を伴っていることや、高地性集落の存在が挙げられる。ここに高地性集落とは、弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設のことだ。これは、かなりの人々がこのあたりに定住し、それなりの縄張りというか、他からの勢力に対し対抗できることを目して使節を構えて住んでいたことを覗わせる。
 さて、この弥生時代を特徴づけるのは、狩猟・採集が主体というよりも、農耕の本格的な開始であったろう。1970年代になって、この地域における農耕の発達を示す典型的な遺跡が見つかっている。その場所は、備前岡山(現在の岡山市中区)の百間川(ひゃっけんがわ)緑地公園のあたりにある。今では、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居として、整然とした形で復元されている。

このような住居をつくるには、まずは敷地を確保し、数十センチメートル位の穴を掘って、そこを土間とする。その上には、茅などを敷いたのであろうか。それから敷地から放射状の屋根となるように柱を立ち上げていき、それらの隙間を茅などで塞ぐ。見つかっている遺跡の復元した姿を想像すると、大まかに住居と水田の跡に分かたれ、考古学上の大発見と目されているのが、水田の発達がここから読み取れることである。この百間川に沿っては、原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基遺跡、今谷遺跡、米田遺跡などが点在して見つかっている。
 弥生時代の水田跡は、岡山市北区の津島〈つしま〉遺跡でも見つかっている。こちらは、弥生時代前期の水田だと見立てられている。水田が営まれるためには地面が平坦でなければならないが、津島では地面にわずかな傾斜があるのを踏まえ、水を効率良く張るために水田を畦〈あぜ〉で細かく区切った跡が残っている。一方、百間川原尾島〈ひゃっけんがわはらおじま〉遺跡においては、均一な正方形に近い区画となっていた。標高のやや高い場所(微高地〈びこうち〉)を削って水田を拡張した跡も見られる。  

今日までの研究によると、大陸から九州北部に米づくりが伝わってきたのは、今から2500年ほど前だといわれており、以後稲作は、短い間に列島各地に広がっていった。当時のそこらにおいては、布の中央に穴をあけ、その穴に頭を通すタイプの衣服を着た人々が連れだって住居を構え、この辺りを開拓して水田をつくったりして、歩き回っていたのだろうか。

今一つ弥生時代の遺跡から、今度は内陸部の沼遺跡を紹介しておこう。谷口澄夫は、この史跡の発掘の成果をこう語っている。 
  「この沼の遺跡には十数個の竪穴が群集しており、これが一つの集落をなしていたと考えられるが、その中央にあってひときわ大きな竪穴が一つある。約一メートルの深さに掘った竪穴のなかほどに、二本の主柱が東西に並んでたてられ、それに棟木(むなぎ)をわたし、さらに二本の主柱のまわりに10本の支柱がならべられて、棟木から地面にいたる桁(けた)のささえとされ、その上をカヤで葺(ふ)いたものと考えられる。入母屋(いりもや)づくりの屋根をそのまま地面に伏せたかたちであるが、その木組みはなかなか手のこんだものであった。この家屋はこの集落の族長の住居であったらしく、鉄製の「やりがんな」やガラスの小玉もこの竪穴から発見されている。」(谷口澄夫「岡山県の歴史」山川出版社、1970)
 これに同じ市内の鮒込(ふなごめ)遺跡も加え、1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」では、こんな説明がなされている。
  「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」
 これらから推し量って、この辺りでもある種の族長制が始まっていたものと考えられている。ここには、大きな住居の中には「まがたま」と呼ばれる湾曲した玉をひもに通して、それを首から下げたりして着飾った人々もいたのだろうか。大珠(たいしゅ)の方は、「まがたま」に先行するもので、出土状況から縄文中期から後期の前半(およそ前5500~前4000)その大きさは2センチセンチから10センチメートルとやや大振りな長円形をしていて、神聖な呪具(のろいぐ)や装身具として、当時の集落の長や祭司を司る者が身につけていたと推測されている。いずれにしても、その頃にはもう階級分化が始まっていたのかも知れない。また、この辺りは「沼」といわれてきたのであるから、自然に恵まれ、その「沼」のそこかしこに、こんこんと湧き出る中国山系の伏流水が得られたはずだ。そのことで、水田の運営が可能となったと考えられる。
 1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
  「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」


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□10『岡山の今昔『』旧石器・縄文時代の吉備社会の構造(遺跡から)

2021-10-04 22:40:26 | Weblog

10『岡山の今昔『』旧石器・縄文時代の吉備社会の構造(遺跡から)

 そもそも、このあたりの生活の最初は、最終氷期が終わり、間氷期が始まった頃であろうか、一説には、「約1万3000年BP」(これは、西暦2000年を基準、0(ゼロ)BP(Before  Present)とする表記。2000年を「現在」とする年代測定の単位。放射性同位元素や地層などによる測定法をいい、「2000 years BP」のように略語のBPを後置するのが習わし)から始まったという。
 そのあたりを、旧石器時代(約1万5000年BP~約1万3000年BP)とそれ以降の新石器時代(地質学の文献に、この時代は取り上げられていない場合が見られる)及び縄文時代(約1万3000年BP~約3000年BP)との境界と考える向きもあろう。なお、北海道と沖縄では、縄文時代からの年代の定義が相当に異なっている。

 この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8000年前ともされている。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡った道筋としては、第一に北海道ルート(2万5000年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8000年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられている。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みている。
 やがて、弥生時代(約3000年BP~1800BP、その後には古墳時代)の中期(紀元前400年位~紀元前後)にさしかかるまでは、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。
 それでは、こちらへ進出した人々がこの辺り・吉備地方に定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来にはいたっていない頃は、どのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったと考えるのが、自然の成り行だろう。
 そんな彼らの活動の規定的要因となっていた社会の基本構造は、どのようなものだったのだろうか。ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、「国家(ステイト)に発展してきた。
 このようなカテゴリー分類でいうと、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。のその理由としては、そんな首長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。官僚組織はまだないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないだろうか。

 それでは、石器時代から縄文時代の遺跡としては、具体的にどんなものがあるかというと、鷲羽山遺跡(旧石器時代)、恩原遺跡(旧石器時代)、貝殻山遺跡(縄文時代)、彦崎遺跡(縄文時代)などが挙げられよう。
 まずは、鷲羽山遺跡(わしゅうざんいせき)から紹介しよう。この遺跡は、現在の倉敷市大畠、鷲羽山久須美鼻にある、西日本で最初に注目された旧石器時代遺跡だ。当地は、隣接する人家はない。そして、南に向かって海に長く突出する岬をなしており、浸食があり、花こう岩が全面にわたって露出している。
 ここが発見された経緯としては、戦後の混乱期なのであった。それも、すでに瀬戸内海国立公園でありながら無秩序に木が伐採され一時、禿山になりかけたらしい。生活に用いる燃料の不足からの伐採ということで、地元の人々を責めることもままならずの有り様だったようである。
 ところが、その事で表土があらわとなり、遺跡を窺わせる痕跡が、これら花こう岩の風化土層中に認められた。1951年頃より専門家による検討が行われ,1954年に発掘が行われた。第1層は、二次的に堆積した約30センチメートルの表土層であり、ここからの出土には、細石刃核、細石刃、ナイフ形石器、小型ナイフ形石器、尖頭器、彫器などの多様な用途に使っていた石器が混在していると伝わる。

 この遺跡での特徴としては、サヌカイトという石で作った、さまざまな石器が多く出土したことだ。この石は、1891年にドイツの岩石学者ワイシェンクが来日して研究し、産地の旧国名讃岐にちなみ、サヌキット(Sanukit)と命名した。現在は、英語読みのサヌカイト(Sanukite)が通称となっている。あわせて1919年には、小藤文治郎が、サヌカイトと近縁な性質を有する瀬戸内地域の中新世火山岩を、まとめてサヌカイト類(またはサヌキトイド)と名付ける。


 なにしろ、この石で作られる石器は、外力で割ると鋭利な面を割り出すことができる、黒曜石にも匹敵する。用いられ方としては、主に狩などに幅広く使用されたと考えられている。
 なお、日本列島の旧石器時代は、氷期(現在の間氷期につながる最終氷期(Last glacial period)とは、およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期のことである)と呼ばれる寒い気候であった。人々は、そのまま東へ関東に至るも、最寒時(およそ2万1000年前)には海が今より100メートル内外低かったともされ、その頃の当地山上から見える瀬戸内海の一部は陸地となっていたと考えられている。

 一方、内陸深くに位置する恩原遺跡は、後期旧石器時代のものとされる。現在の苫田郡鏡野町の恩原高原の、中国山地尾根筋付近にある。標高が約730メートルというから、かなりの高原地帯である。この遺跡の場所は、現在は河川域が恩原貯水池となって、その南岸に位置する。元々は、瀬戸内海へそそぐ吉井川の源流を望む平坦な台地上にあったと推測されている。

 さて、1984年から1997年まで、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした恩原遺跡発掘調査団による発掘調査が実施された。表土層下の火山灰層中で後期旧石器時代に属する4つの文化層が確認され、その内訳は「恩原1遺跡」(2009)と「恩原2遺跡」(1996年)とに分かれる。
 その地層としては、約33,000~28,000年前ともされ、旧石器時代遺跡と認定される。もう少しいうと、より古い台形石器の時期と、より新しい石刃素材ナイフ形石器の時期とに分かたれるという。

 貝殻山遺跡は、今は岡山市内から南に位置する児島半島(当時は島であった)にある。市内からの手頃な山歩きコースの一つであって、その登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区になる。「貝殻山」という名称はいつ頃から使われているかは知らない。とはいえ、「縄文海進」(じょうもんかいしん)や「吉備穴海」(きびのあなうみ)の頃から、このあたりにいた人々は、浜辺や海水を含んだ沼などで豊富な貝や魚などを捕って、海岸で土器などを用いて茹(ゆ)でる、焼くなどして食べていたのではないだろうか。

 参考までに、関東では、横浜の夏島(なつしま)の貝殻遺跡のような案配なのかとも推察している。貝殻山遺跡の貝層を掘り下げた砂質土層からは、少数だが土器と石鏃が出土しているとのことであり、少量ながら縄文時代後期のものだと見られている。


 2019年には、2018年度から3年計画で実施した倉敷市教委が、発掘調査している縄文時代の貝塚遺跡・中津貝塚(倉敷市玉島黒崎)で、縄文晩期(約3千年前)の土壙墓(どこうぼ)と埋葬人骨が見つかったと発表している。こちらの貝塚は、縄文後期初頭を代表するとされ、次のように説明される。

 「磨消(すりけし)縄文」文様の土器が確認されたことで知られる。今回の調査は、貝塚の分布状況の把握を目的に、2018年度から3年計画で実施された。2018年度に設けた試掘溝の1カ所で、土壙墓2基とそれぞれから1人分の人骨を確認した1基からは肋骨(ろっこつ)、脊椎骨、鎖骨や手足の骨など、ほぼ全身の骨が出土。もう一方では頭蓋骨が見つかった。本年度は頭蓋骨の出た試掘溝の隣を発掘しており、上腕骨、大腿(だいたい)骨など体部の骨が残っているのを確認した。別の試掘溝では中津式の土器片も出土している (山陽新聞デジタル、2019年12月10日付け)。


 こうしてみると、選択と集中ということで、今後の発掘、研究次第では、わが郷土の縄文人の顔や骨格はどうなのかが語れるようになるのかもしれない。筆者の経験であいうと、埼玉県秩父の長瀞(ながとろ)にある県立博物館にて二度ばかり、縄文人の標本(出土の骨格)を拝見して、痛く感動した。

 もう一つ、彦崎貝塚(ひこざきかいづか)は、瀬戸内海に面した旧児島湾の南岸に所在(現在の岡山市彦崎)する、縄文時代前期(約6000年前)から晩期にかけての貝塚である。この辺りは、瀬戸内海沿岸でも名高い貝塚密集地域である。

 当時は、広大な内湾・干潟が形成されていたとされ、遺跡の総面積は、約2500平方メートル(㎡)におよぶ。岡山県下では、津雲、磯の森貝塚と並び最大級規模である。

 この彦崎貝塚からの出土品としては、1948年~1949年に実施された東京大学理学部人類学教室による発掘調査で、約30体の人骨と、貝類、石器、装身具、骨格器(獣骨)などが見つかっているという。岡山市(教育委員会、旧灘崎町教育委員会)が2003年~2006年に行った発掘調査によると、南北100m、東西80メートル(m)に及ぶ縄文時代前期の貝塚を最大として、晩期までの長い間に、何段重ねもの貝層が確認されたという。これらで出土したのは貝類ばかりでなく、鯛やサワラ、ママカリなどの魚類、貯蔵穴からはドングリ類のシイなどの種子も見つかっており、これらの多様な出土により当時の人々の食生活・暮らしぶりを伝えるとして、2008年には、国史跡に指定された。


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 そんな縄文時代の遺跡の中でも、2005年の岡山からの報告で、次の報告が寄せられている。
  「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文時代晩期に大陸から伝わったとされる、わが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
 ここにいうイネのプラント・オパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。
 鑑みるに、縄文時代には、県内の一部でも、部分的な稲作が導入されていたものと推測される。史料としては、「陸稲」としてのイネが栽培されていたこともわかっている。直近の氷河期が終わって温暖な時代に生きた縄文時代の人々は、狩猟や漁撈(ぎょろう、南部の海沿い)あるいは採取とともに、農耕を行いながら食料を確保していたようだ。

 これから推し量ると、縄文時代も晩期にさしかかると、水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わり、弥生時代になって九州から本州、そして四国へと広まってくる。

 また、おそらくこの時期にコムギやオオムギも伝えられ、ウメやモモなどの栽培果樹も伝わったようだ。およそ、そういうことだから、追って水田稲作に関する本格的技術が、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされていく、それを受け止める下地は形成されていたといえなくもあるまい。彼らと縄文人との混血によって今日に続く日本人が、それを担う存在として浮かび上がる。かくして、それまでに比べてハイレベルな水田稲作は、日本社会に大きな変革をもたらすところとなっていったのだと考えられよう。

                                                                             

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