新◻️216『岡山の今昔』岡山市(北区)

2021-12-17 18:37:07 | Weblog
216『岡山の今昔』岡山市(北区)

 まずは、区域と人口から、およその経緯を述べよう。岡山市は、1889年(明治22年)の市制施行以来、つごう13回にわたる、周辺市町村の合併などをしてきた。 1969年(昭和44年)には、吉井川を隔てて東隣の西大寺市と合併する。1971年(昭和46年)の9町村(一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、興除村、足守町)との合併を経て、1975年(昭和50年)5月には藤田村との合併が実現する。そうした中、1953年(昭和28年)4月には、金川町を中心に7ヶ町村が合併して、御津町となる。その後、岡山市に一部を分離、赤磐市(旧赤磐郡)から一部を編入する。
 さらに、北へ東へ向かっての拡大が進む。すなわち、これらの地域については、北隣の金川との連絡の観点もあろう。明治以降、金川(かながわ)は、だんだんに県南の発展に取り残されていく感があった。 それからも、県な南地域との発展は乖離する一方であったところ、21世紀に入ると、岡山市との合併話が進められていく。御津郡御津町・児島郡灘崎町が2005年(平成17年)3月22日をもって岡山市へ、次いで、御津郡建部町、赤磐郡瀬戸町が2007年(平成19年)1月22日をもって岡山市に組み入れられる。
 かくて、2021年3月現在の市域面積は789.95平方キロメートル、かつての備前国、備中国、美作国にまたがる広大な市域となっている。人口の方も70万人余りとなっており、2009年4月には政令指定都市となっている。
 そもそも北区は、岡山市の中で広さ、人口ともに最大にして、かつ岡山県庁など行政の中心、それに数々の人文・歴史施設が集積している。町並みも旺盛であり、旭川の西岸、岡山城からかつての岡山城下町へとつないで、やがて岡山駅へといたる。
 表舞台だらけと思いきや、庶民派の雰囲気がかんじられるエリアも。同駅の北側には、奉還町商店街など、戦前からの古い町並みも広がる。

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 歴史的な歩みとしては、倭(わ、日本が生まれる前の名前)の時代にさかのぼることができよう。古代において、東からやって来ての当地は、古くは、岡山・石山・天神山の3つの丘といつか低い山というか、それらを目印なり中心としたデルタである大島(大洲原、原大島などとも)の一部であったとみられている。
 そのとっかかりの地域というのは、「和名類聚抄」に備前国御野郡の出石郷、中世になると備前国内の有力荘園鹿田荘の支配下であったとも。
 とにもかくにも、吉井川と旭川なとを大小それぞれの河川が、昔から下流域を形成しつつ、周囲に肥沃な大地、そのことに伴っての工業などのの発達が加わる。
 そこへ持ってきて近世にいたっては、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更する。かつ山陽道を始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄であった。
 そこへ持ってきて近世にいたると、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更するのをもって嚆矢とする。
 とともに、その変更された沿線を中心に、新たな町割りがつくられていく。そのおりには、宇喜多氏が、既述の東方面からの伝統福岡(現在の瀬戸内市長船町福岡)、片上(現在の備前市西片上・東片上)、西大寺(現在の岡山市東区西大寺地区中心部)など備前あるいはその近郊に住んでいた商人・職人などを集めた。
 それでもって町人町が生まれ、それが江戸時代の岡山藩による町づくりに従ううちに、岡山城下を代表する地域の顔となる町むた町が育っていく。
 それらの代表格といえば、やはり、現在でいうところの表町(おもてちょう)なのだろう。そこでいま江戸期の地図(さしあたって、岡山大学付属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備出版、2009を道しるべに)と現在のものとを照らし合わせて、東から京橋を西へと渡ってからいうと、山陽道(西国街道)は橋本町から西大寺町へ、その端のところ、現在の同「商店街の終わり、時計台(サーカスドーム)のあたりで西国街道は、北上し、紙屋町に入る」(前掲書)、しかしてそれが「現在の表町商店街がほぼ西国街道に一致している」(同)とされる。
 ちなみに、西大寺町の南にある下之町と紙屋町には本陣といって、参勤交代の行き帰りに大名が宿泊していた。当時の地図でいうと、紙屋町の北側には栄町があり、こちらは本陣のほか、西国街道沿いに町会所があり、城下町(いわゆる町方)の政治経済から司法までをとりまとめ、また藩へ、藩からの窓口、いわば町方の中心であったこ。それに、岡山と各地を結ぶ主要な街道のほぼ全てがこの栄町の千阿弥橋(栄町と紙屋町をとり結ぶところに架けられた)を起点なり重要地点なりに定めていたという。

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 交通でいうと、歴史的には、まずは山陽道なのだろう。古代から、これを始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄である。

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 それから、新しい産業も育ってきているようで、例えば、次のように紹介されている。

 「同社は1995(平成7)年の設立当初は自動車関連の生産設備の製造販売を行っていた。エンジンやミッションを組み立てるラインの設備を、自動車メーカーからのニーズに応じた仕様で一つひとつ生産していた。しかし、自動車の製造拠点が海外に移転していったことに伴い、受注量が漸減(ぜんげん)していく。決定打となったのが2008(平成20)年のリーマンショックで、これにより受注が激減したという。

 「お客様からのニーズを聞いて受注を待つ体制はもう、やめようと思いました。これからは自分たちの技術を発信し、新たな市場を切り拓こう、『ニーズからシーズへ』と転換を図ろうと、2010(平成22)年から始めたのが耐久試験の事業でした。」(黒部麻子・文「フレキシブルディスプレイの開発を支える試験機のトップメーカー、ユアサシステム機器株式会社(岡山市)」、中国電力株式会社地域共創本部「碧い風」102、2021年7月号)

 そうはいっても、丸腰で始めたのではなかったようで、「自動車で使われるワイパーハーネス(組電線)の屈曲性を試験する機械を作っていた経験」(同)があったから。そして、苦心の末に出来上がったのがフレキシブルディスプレイ耐久試験機なのだという。以来、素材メーカのみならず、デバイスメーカー、そして、製品メーカーへと販路を広げていく。

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 それでは、明治時代に入ってからの商店街は、どのようになっていったのだろうか。予めいうならば、それは、かなりの変動をしていく。その中心となったのが、今日でいう「表町商店街」であって、城下町岡山のかなり西まで行ってから北に転じての辺り、当時の山陽道に沿ってであった。
 そして、この商店街の環境なり雰囲気をガラリと変えていくのが、この地域における近代的な百貨店の出現であったろう、例えば、こんな記事が載っている。

 「表町商店街への進出は3代・藻平の時で、中之町に呉服店を出した。百貨店としてのスタイルを整えるのは13年後の1925年(大正14年)。下之町の現在地に、十間四方(縦横約18メートル)の洋風木造3階建ての店舗を建設し、呉服、洋品雑貨、子供服など多くの品を扱った。開店日の3月10日は大混雑となり、やむなく入館制限をしたという。
苦難を乗り越え
 1936年(昭和11年)3月11日、天満屋は大火に襲われる。本館3階から出た火は全体に燃え広がり、軍隊まで出動し消火に参加。死傷者はなかったものの、大きな損害が出た。しかし、立ち上がりは早く、18日後には近くの分館で営業を再開。10月にはすでに着工していた地下1階、地上6階建て、エレベーターや冷暖房装置も備えた売り場約1万3000平方メートルの新店舗を開店させた。屋上には小動物園のある「子供の国」も設けられ、親しまれる百貨店となるのに役立ったという。」(2021年2月14日付け「読売新聞」電子版)


 北区には、また小川を利用した公園が少なくない。それらのうち代表格は、南方地内から柳町地内までに設置されているのが西川緑道公園であって、1974年度(昭和49年度)から1982年度(昭和57年度)まで9カ年かけて、岡山市がつくった。岡山市中心部を南北に流れる西川用水の両岸を「緑の回廊」として整備したもので、総延長は2.4km(キロメートル)、総面積にすると4.0ha(ヘクタール)あるという。
 なぜ緑道公園というのかについては、まずは清らかな川沿いとしていることがあろう。そこへ持ってきて、およそ100種類の樹木を約3万8千本植樹してあるほか、彫刻や水上テラスなど心休まるオブジェなどをところどころに配置してあるという。
 なにしろ街中のこととて、全範囲にわたって沿道の安全が確保しやすいことがあろう。それに、筆者が少しばかり足を運んだ限りでいうと、何というか、なんとなく気持ちが明るい方へと運ばれる感じがした。これだと、昼間のみならず夜になっても、水と緑に囲まれた散策を楽しんでもらえると。季節感も湧いてきそうで、春の芽生えから新緑へ、夏は涼しさを求めての森林浴、それからは秋の紅葉が手頃な距離のところに展開している。草木花の様子からは、四季の移り変わりが楽しめそう。それに、野殿橋ステージ周辺では、さまざまな市民主体のイベントが開催されたりもしているようなのだ。

 今につながる北区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)

 それから、今につながる北区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)

○2021年11月19日付けで配信されたニュースにて、子ども支援団体などの連携グループ「こどもを主体とした地域づくりネットワークおかやま」が行う生活応援事業「フード&ライフドライブ」が紹介された。昨春に始めた取り組みは5回目とのこと。この催しは、食料品・日用品の寄付を募り、新型コロナウイルス禍の影響などで困窮する子育て家庭に贈るというもの。岡山市内2会場(岡輝公民館(同市北区旭本町)と操山公民館(同市中区国富)で支援品の寄付を受け付けるとのこと。
 やみくもに無料で供出してほしいというのではなくて、米、缶詰、インスタント食品、調味料、菓子、粉ミルク、洗剤、おむつ、生理用品、マスクなどを募っているとのこと。それでいて、未開封・未使用で、食料品は期限が2022年2月以降のものとしている。 今回は当該の350世帯に無償提供する予定とのことで、新型コロナ禍の長期化で支援を求める家庭を支援しようとの熱意と努力に脱帽だ。

(続く)

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新◻️171『岡山の今昔』浅口市

2021-12-17 09:25:45 | Weblog
171『岡山の今昔』浅口市

 浅口(あさくち)市は、県の南西部に位置する。その南側は、瀬戸内海に面している。東には倉敷市、西には笠岡市。ちなみに、「浅口」という名前の由来だが、「続日本書記」に、「備中国浅口郡犬養のかり手、昔、飛鳥寺の塩焼戸(しおやきべ)に配せられて、誤って賤例に入る。是に至りてて遂に訴えて之を免ず」(森脇正之「玉島風土記」岡山文庫169、1988で紹介)とある。当時としては、賤民にされると大層生づらかったのだろう。

 それから、長い年月を経ての2006年3月21日には、金光町、鴨方町、寄島町の3つが合併して誕生した。その時、里庄町は浅口郡に只一つ残り、船穂町は倉敷市に移った。

 交通をいうと、東西をJR山陽本線が横断していて「鴨方駅」「金光駅」の二つの駅が設けられている。主要な道路としては、国道2号線が山陽本線に沿うように通っていて東西の交通の要となっている。県道64号線を筆頭に多くの県道がそこから枝分かれして市内全域へとつながる展開だ。バス路線も充実していて、市内循環してもよし、倉敷市方面・笠岡市方面・市内循環をカバーしていると教わる。それから、山陽自動車道が市の中心部から少し北部を横切り「鴨方IC」が設けられている。

 こちらの気候としては、瀬戸内海に隣接していることから、一年を通じて温かく、しのぎ易い。とはいえ、2018年7月の豪雨に遭ったことで、様子が変わったのは、他の南部の自治体と同じ。
 交通の便利は、JR、国道、山陽自動車道が市を横断しており、倉敷市など周辺都市のベッドタウンの顔を持つ。

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 産業としては、植木の栽培、手延べ麺の生産、漁業など多種多様だ。いうならば、合併前の各地域ごとに特色があった。北の方から順に少しいうと、金光地域は、「金光教本部」があることから宗教の町といったイメージもあるものの、そればかりではなくて、植木の町としても有名だ。それに類して、季節の花や木が展示販売され賑わっているとのこと。  その南西方向にある鴨方エリアというのは、なんといっても「鴨方そうめん」をあげねばなるまい。「阿部山水系」に源を発する「杉谷川」の水を利用した手延べそうめん作りは、江戸時代末期から伝統を誇る。そういえば、関東地区の店にも時折売られているのを拝見する。他にも桃やイチゴの栽培も盛んに行われているとのことであり、全体として爽やかな土地柄といってよい。
 寄島エリアについては、その名前のとおり、いまでは島は陸つづきだ。この辺りの瀬戸内海は、古くから漁場として栄えてきたところであって、寄島漁港では約80隻の底引き網漁船が停泊していて瀬戸内海で漁業に精を出しているとされる。四季折々の魚の種類も豊富、代表的なものにガザミやシャコなど。また牡蠣の養殖も盛んに行われているとのことで、頼もしい。

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 それから、市内の見所として、珍しいところでは、天文台が有名だ。この町の北部には、国内最大級の望遠鏡が二つあるという。一つは、1960年(昭和35年)に設置された183センチメートルの反射望遠鏡で、国立天文台が運営する。もう一つは、2018年に完成した3.8メートルの反射望遠鏡「せいめい」で、こちらは京都大学岡山天文台だ。後者の特徴は、24時間、各国連携での観測を可能とするものだという。

(続く)

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新◻️252『岡山の今昔』津山市(産業など)

2021-12-17 08:53:58 | Weblog
252『岡山の今昔』津山市(産業など)

 現在の津山市は、岡山県の北部、津山盆地とその周辺から成り立っている。現在の津山市は、2005年2月28日をもって、旧津山市と勝北町、久米町、加茂町、それに阿波村が合併して誕生した。総人口は約10万人だという。
 地理では、北は鏡野町、鳥取県と接す。東には美作市、南にかけては久米南町(久米郡)、西には真庭市。

 その成り立ちでは、古くから美作地域の中心である。713年(和銅6年)の4月に備前国から離れ、現在の津山市総社に美作国(みまさかのくに)の国府が置かれた。それからかなりの時が経過しての江戸時代には、津山城の城下町となる。そして、1876年(明治9年)4月には、北条県が岡山県に合併吸収された。

 思えば、713年(和銅6年)の4月に備前国からから離れて以来1163年ぶりのことであった。続いての1900年(明治33年)には、津山町と津山東町が合併して、第二次の津山町がスタートした。

 この地域における近代産業の展開ということでは、美作域内での繊維大手としては、津山市二宮を本拠地とする郡是グンゼが、1916年(大正5年)、グンゼ株式会社津山工場として設立し、生糸の生産を開始する。

 同社の場合、それが第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

 さらに時代が変わっての市制施行は、1929年(昭和4年)のことであった。

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 第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、産業の復興がなされていく。繊維に、ついていえば、前述の郡是が、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

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 それから、現在につながる合併から10年を迎え、市では、かねてからの新生津山キラめきプラン(津山新市建設計画)や津山市第4次総合計画などでを推進してきた、それを今後の津山市の施策へ繋げてゆくため、合併10年間の成果と課題をまとめた「合併10年の総括と今後の展望」を作成したという。

 続いて、美作の若手を育てる企画から、一つ紹介しよう。
 「美作地域に活力を生み出そうと、若手の起業家や農業者、建築士らによる交流組織「みま咲く未来プロジェクト」が6日、発足した。若者たちが連携できる取り組みを通じ、若者らの定着や、より活躍できる地域づくりを目指す。
 地域の将来像を展望した「みま咲く未来シンポジウム」(11月18日・津山市)でコーディネーターやパネリストとして登壇したウェブサイト制作などのレプタイル(同市)の丸尾宜史社長(37)ら6人で構成する企画会議を同市内で開催。交流組織の立ち上げを決め、組織の在り方や活動内容を話し合った。
 名称は、若者らを支援しようと、シンポジウムや本紙作州ワイド版の連載「この地に生きる―作州の若手」を展開した美作県民局と山陽新聞津山支社による「みま咲く未来プロジェクト」と同名にし、代表に丸尾社長を選んだ。
 今後、組織を紹介するホームページを作成。企画会議に学生らより若い世代のメンバーも加え、具体的な取り組みについて検討していくことなどを申し合わせた(2019年12月6日 、山陽新聞デジタル)。
 これにあるのは、新しい頭脳の一つとしての交流部門の誕生なのだろうが、是非、吉備高原都市構想などの、県内の優れた経験にも取材してほしい、みんなの力を合わせることで頑張ってほしい。
  
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 次には、「地域に生きる企業家群像」として雑誌に見える中から、津山を拠点にしている、広い意味での産業ロボットメーカーの取り組み記事を暫し紹介したい。
 項目としては、「父の急逝が転機と、なり大好きなロボットで起業」、次いで「無理せず無借金経営で着実に成長」「自動化で危険な作業を安全かつ高品質に」ときて、後半は「人材養成のユニークな取り組み」さらに「チャンスをつかむために大切なのは目標を持つこと」で締めくくっている。
 「実はリーマンショック後から、日々の業務の傍ら新たなロボットの開発を続けてきた。それは、合鴨農法の合鴨に代わるような、水田用除草ロボットだ。合鴨のように土壌を撹拌しながら田んぼを走行することで、稲の光合成を妨げる雑草を取り除くとともに、土壌中に酸素を供給し、稲の成長を促す。
 高齢し高齢化し、後継者不足や耕作権放棄地の増加が深刻になっている昨今、米作りが盛んな津山ならではのロボットを社長の出身校である津山高専と共同で開発している。」(黒部麻子「津山に帰郷し、ゼロからのロボットっくりに挑戦。ユニークな発想と広い視野で人材を育成し、独自のロボットの開発を目標に掲げる。IKOMAロボテック株式会社、生駒代表取締役社長(岡山県津山市)、雑誌「碧い風」103、2021年11月号に掲載)
 これなどは、地に足がちゃんとついて時代の変化に即応している感じが伝わる、なんとも清々しい話で、事業の発展を祈らずにはいられない。


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 さらに眼をウインター・スポーツに転じてみると、津山市の屋外スケートリンクが2年ぶりにオープンし、多くの家族連れなどでにぎわっているというから、興味深い。その場所は津山市の志戸部(しとべ)、そこに冬の間だけ開設される「アイスランド津山」がうるのだが、広さがおよそ1800平方メートルある、西日本最大規模の屋外スケートリンクからのレポートなのだ。
 報道によれば、こちらのスケート場を運営するのは、津山陸上競技場(市営)なのだが、昨シーズンは新型コロナの影響で開設されず、2021年12月11日から営業が始まったとのこと。市民の大方には知られているが、近隣からも、スケート靴の貸し出しも行われている手軽さもあることなどから、家族連れなどが訪れ、楽しそうに滑っているという。県北では、冬の寒さにともすれば家に閉じこもりがちなのに対して、寒さを吹き飛ばそうとの気概も生まれるかもしれない。志戸部にはショッピングセンター、食事施設もあったりで、スポーツで楽しんだ後は美味しい食事をするには便ではないかだろうか。
 
(続く)

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