216『岡山の今昔』岡山市(北区)
まずは、区域と人口から、およその経緯を述べよう。岡山市は、1889年(明治22年)の市制施行以来、つごう13回にわたる、周辺市町村の合併などをしてきた。 1969年(昭和44年)には、吉井川を隔てて東隣の西大寺市と合併する。1971年(昭和46年)の9町村(一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、興除村、足守町)との合併を経て、1975年(昭和50年)5月には藤田村との合併が実現する。そうした中、1953年(昭和28年)4月には、金川町を中心に7ヶ町村が合併して、御津町となる。その後、岡山市に一部を分離、赤磐市(旧赤磐郡)から一部を編入する。
さらに、北へ東へ向かっての拡大が進む。すなわち、これらの地域については、北隣の金川との連絡の観点もあろう。明治以降、金川(かながわ)は、だんだんに県南の発展に取り残されていく感があった。 それからも、県な南地域との発展は乖離する一方であったところ、21世紀に入ると、岡山市との合併話が進められていく。御津郡御津町・児島郡灘崎町が2005年(平成17年)3月22日をもって岡山市へ、次いで、御津郡建部町、赤磐郡瀬戸町が2007年(平成19年)1月22日をもって岡山市に組み入れられる。
かくて、2021年3月現在の市域面積は789.95平方キロメートル、かつての備前国、備中国、美作国にまたがる広大な市域となっている。人口の方も70万人余りとなっており、2009年4月には政令指定都市となっている。
そもそも北区は、岡山市の中で広さ、人口ともに最大にして、かつ岡山県庁など行政の中心、それに数々の人文・歴史施設が集積している。町並みも旺盛であり、旭川の西岸、岡山城からかつての岡山城下町へとつないで、やがて岡山駅へといたる。
表舞台だらけと思いきや、庶民派の雰囲気がかんじられるエリアも。同駅の北側には、奉還町商店街など、戦前からの古い町並みも広がる。
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歴史的な歩みとしては、倭(わ、日本が生まれる前の名前)の時代にさかのぼることができよう。古代において、東からやって来ての当地は、古くは、岡山・石山・天神山の3つの丘といつか低い山というか、それらを目印なり中心としたデルタである大島(大洲原、原大島などとも)の一部であったとみられている。
そのとっかかりの地域というのは、「和名類聚抄」に備前国御野郡の出石郷、中世になると備前国内の有力荘園鹿田荘の支配下であったとも。
とにもかくにも、吉井川と旭川なとを大小それぞれの河川が、昔から下流域を形成しつつ、周囲に肥沃な大地、そのことに伴っての工業などのの発達が加わる。
そこへ持ってきて近世にいたっては、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更する。かつ山陽道を始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄であった。
そこへ持ってきて近世にいたると、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更するのをもって嚆矢とする。
とともに、その変更された沿線を中心に、新たな町割りがつくられていく。そのおりには、宇喜多氏が、既述の東方面からの伝統福岡(現在の瀬戸内市長船町福岡)、片上(現在の備前市西片上・東片上)、西大寺(現在の岡山市東区西大寺地区中心部)など備前あるいはその近郊に住んでいた商人・職人などを集めた。
それでもって町人町が生まれ、それが江戸時代の岡山藩による町づくりに従ううちに、岡山城下を代表する地域の顔となる町むた町が育っていく。
それらの代表格といえば、やはり、現在でいうところの表町(おもてちょう)なのだろう。そこでいま江戸期の地図(さしあたって、岡山大学付属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備出版、2009を道しるべに)と現在のものとを照らし合わせて、東から京橋を西へと渡ってからいうと、山陽道(西国街道)は橋本町から西大寺町へ、その端のところ、現在の同「商店街の終わり、時計台(サーカスドーム)のあたりで西国街道は、北上し、紙屋町に入る」(前掲書)、しかしてそれが「現在の表町商店街がほぼ西国街道に一致している」(同)とされる。
ちなみに、西大寺町の南にある下之町と紙屋町には本陣といって、参勤交代の行き帰りに大名が宿泊していた。当時の地図でいうと、紙屋町の北側には栄町があり、こちらは本陣のほか、西国街道沿いに町会所があり、城下町(いわゆる町方)の政治経済から司法までをとりまとめ、また藩へ、藩からの窓口、いわば町方の中心であったこ。それに、岡山と各地を結ぶ主要な街道のほぼ全てがこの栄町の千阿弥橋(栄町と紙屋町をとり結ぶところに架けられた)を起点なり重要地点なりに定めていたという。
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交通でいうと、歴史的には、まずは山陽道なのだろう。古代から、これを始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄である。
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それから、新しい産業も育ってきているようで、例えば、次のように紹介されている。
まずは、区域と人口から、およその経緯を述べよう。岡山市は、1889年(明治22年)の市制施行以来、つごう13回にわたる、周辺市町村の合併などをしてきた。 1969年(昭和44年)には、吉井川を隔てて東隣の西大寺市と合併する。1971年(昭和46年)の9町村(一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、興除村、足守町)との合併を経て、1975年(昭和50年)5月には藤田村との合併が実現する。そうした中、1953年(昭和28年)4月には、金川町を中心に7ヶ町村が合併して、御津町となる。その後、岡山市に一部を分離、赤磐市(旧赤磐郡)から一部を編入する。
さらに、北へ東へ向かっての拡大が進む。すなわち、これらの地域については、北隣の金川との連絡の観点もあろう。明治以降、金川(かながわ)は、だんだんに県南の発展に取り残されていく感があった。 それからも、県な南地域との発展は乖離する一方であったところ、21世紀に入ると、岡山市との合併話が進められていく。御津郡御津町・児島郡灘崎町が2005年(平成17年)3月22日をもって岡山市へ、次いで、御津郡建部町、赤磐郡瀬戸町が2007年(平成19年)1月22日をもって岡山市に組み入れられる。
かくて、2021年3月現在の市域面積は789.95平方キロメートル、かつての備前国、備中国、美作国にまたがる広大な市域となっている。人口の方も70万人余りとなっており、2009年4月には政令指定都市となっている。
そもそも北区は、岡山市の中で広さ、人口ともに最大にして、かつ岡山県庁など行政の中心、それに数々の人文・歴史施設が集積している。町並みも旺盛であり、旭川の西岸、岡山城からかつての岡山城下町へとつないで、やがて岡山駅へといたる。
表舞台だらけと思いきや、庶民派の雰囲気がかんじられるエリアも。同駅の北側には、奉還町商店街など、戦前からの古い町並みも広がる。
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歴史的な歩みとしては、倭(わ、日本が生まれる前の名前)の時代にさかのぼることができよう。古代において、東からやって来ての当地は、古くは、岡山・石山・天神山の3つの丘といつか低い山というか、それらを目印なり中心としたデルタである大島(大洲原、原大島などとも)の一部であったとみられている。
そのとっかかりの地域というのは、「和名類聚抄」に備前国御野郡の出石郷、中世になると備前国内の有力荘園鹿田荘の支配下であったとも。
とにもかくにも、吉井川と旭川なとを大小それぞれの河川が、昔から下流域を形成しつつ、周囲に肥沃な大地、そのことに伴っての工業などのの発達が加わる。
そこへ持ってきて近世にいたっては、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更する。かつ山陽道を始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄であった。
そこへ持ってきて近世にいたると、宇喜多秀家が岡山城築城後、岡山城下町をつくる。その際には、当時の山陽道を城下町を南北に縦貫するように変更するのをもって嚆矢とする。
とともに、その変更された沿線を中心に、新たな町割りがつくられていく。そのおりには、宇喜多氏が、既述の東方面からの伝統福岡(現在の瀬戸内市長船町福岡)、片上(現在の備前市西片上・東片上)、西大寺(現在の岡山市東区西大寺地区中心部)など備前あるいはその近郊に住んでいた商人・職人などを集めた。
それでもって町人町が生まれ、それが江戸時代の岡山藩による町づくりに従ううちに、岡山城下を代表する地域の顔となる町むた町が育っていく。
それらの代表格といえば、やはり、現在でいうところの表町(おもてちょう)なのだろう。そこでいま江戸期の地図(さしあたって、岡山大学付属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備出版、2009を道しるべに)と現在のものとを照らし合わせて、東から京橋を西へと渡ってからいうと、山陽道(西国街道)は橋本町から西大寺町へ、その端のところ、現在の同「商店街の終わり、時計台(サーカスドーム)のあたりで西国街道は、北上し、紙屋町に入る」(前掲書)、しかしてそれが「現在の表町商店街がほぼ西国街道に一致している」(同)とされる。
ちなみに、西大寺町の南にある下之町と紙屋町には本陣といって、参勤交代の行き帰りに大名が宿泊していた。当時の地図でいうと、紙屋町の北側には栄町があり、こちらは本陣のほか、西国街道沿いに町会所があり、城下町(いわゆる町方)の政治経済から司法までをとりまとめ、また藩へ、藩からの窓口、いわば町方の中心であったこ。それに、岡山と各地を結ぶ主要な街道のほぼ全てがこの栄町の千阿弥橋(栄町と紙屋町をとり結ぶところに架けられた)を起点なり重要地点なりに定めていたという。
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交通でいうと、歴史的には、まずは山陽道なのだろう。古代から、これを始めとする街道筋がこの地を貫き、人馬それに舟などの行き来が盛んな土地柄である。
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それから、新しい産業も育ってきているようで、例えば、次のように紹介されている。
「同社は1995(平成7)年の設立当初は自動車関連の生産設備の製造販売を行っていた。エンジンやミッションを組み立てるラインの設備を、自動車メーカーからのニーズに応じた仕様で一つひとつ生産していた。しかし、自動車の製造拠点が海外に移転していったことに伴い、受注量が漸減(ぜんげん)していく。決定打となったのが2008(平成20)年のリーマンショックで、これにより受注が激減したという。
「お客様からのニーズを聞いて受注を待つ体制はもう、やめようと思いました。これからは自分たちの技術を発信し、新たな市場を切り拓こう、『ニーズからシーズへ』と転換を図ろうと、2010(平成22)年から始めたのが耐久試験の事業でした。」(黒部麻子・文「フレキシブルディスプレイの開発を支える試験機のトップメーカー、ユアサシステム機器株式会社(岡山市)」、中国電力株式会社地域共創本部「碧い風」102、2021年7月号)
そうはいっても、丸腰で始めたのではなかったようで、「自動車で使われるワイパーハーネス(組電線)の屈曲性を試験する機械を作っていた経験」(同)があったから。そして、苦心の末に出来上がったのがフレキシブルディスプレイ耐久試験機なのだという。以来、素材メーカのみならず、デバイスメーカー、そして、製品メーカーへと販路を広げていく。
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それでは、明治時代に入ってからの商店街は、どのようになっていったのだろうか。予めいうならば、それは、かなりの変動をしていく。その中心となったのが、今日でいう「表町商店街」であって、城下町岡山のかなり西まで行ってから北に転じての辺り、当時の山陽道に沿ってであった。
そして、この商店街の環境なり雰囲気をガラリと変えていくのが、この地域における近代的な百貨店の出現であったろう、例えば、こんな記事が載っている。
「表町商店街への進出は3代・藻平の時で、中之町に呉服店を出した。百貨店としてのスタイルを整えるのは13年後の1925年(大正14年)。下之町の現在地に、十間四方(縦横約18メートル)の洋風木造3階建ての店舗を建設し、呉服、洋品雑貨、子供服など多くの品を扱った。開店日の3月10日は大混雑となり、やむなく入館制限をしたという。
苦難を乗り越え
1936年(昭和11年)3月11日、天満屋は大火に襲われる。本館3階から出た火は全体に燃え広がり、軍隊まで出動し消火に参加。死傷者はなかったものの、大きな損害が出た。しかし、立ち上がりは早く、18日後には近くの分館で営業を再開。10月にはすでに着工していた地下1階、地上6階建て、エレベーターや冷暖房装置も備えた売り場約1万3000平方メートルの新店舗を開店させた。屋上には小動物園のある「子供の国」も設けられ、親しまれる百貨店となるのに役立ったという。」(2021年2月14日付け「読売新聞」電子版)
北区には、また小川を利用した公園が少なくない。それらのうち代表格は、南方地内から柳町地内までに設置されているのが西川緑道公園であって、1974年度(昭和49年度)から1982年度(昭和57年度)まで9カ年かけて、岡山市がつくった。岡山市中心部を南北に流れる西川用水の両岸を「緑の回廊」として整備したもので、総延長は2.4km(キロメートル)、総面積にすると4.0ha(ヘクタール)あるという。
なぜ緑道公園というのかについては、まずは清らかな川沿いとしていることがあろう。そこへ持ってきて、およそ100種類の樹木を約3万8千本植樹してあるほか、彫刻や水上テラスなど心休まるオブジェなどをところどころに配置してあるという。
なにしろ街中のこととて、全範囲にわたって沿道の安全が確保しやすいことがあろう。それに、筆者が少しばかり足を運んだ限りでいうと、何というか、なんとなく気持ちが明るい方へと運ばれる感じがした。これだと、昼間のみならず夜になっても、水と緑に囲まれた散策を楽しんでもらえると。季節感も湧いてきそうで、春の芽生えから新緑へ、夏は涼しさを求めての森林浴、それからは秋の紅葉が手頃な距離のところに展開している。草木花の様子からは、四季の移り変わりが楽しめそう。それに、野殿橋ステージ周辺では、さまざまな市民主体のイベントが開催されたりもしているようなのだ。
今につながる北区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。
「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)
「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)
それから、今につながる北区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。
「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)
「・各中学校又は小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、公民館等を拠点として地域の実情に合わせた健康づくりを行っている。・子どもの数は4区の中で最も多い。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(北区)」)
○2021年11月19日付けで配信されたニュースにて、子ども支援団体などの連携グループ「こどもを主体とした地域づくりネットワークおかやま」が行う生活応援事業「フード&ライフドライブ」が紹介された。昨春に始めた取り組みは5回目とのこと。この催しは、食料品・日用品の寄付を募り、新型コロナウイルス禍の影響などで困窮する子育て家庭に贈るというもの。岡山市内2会場(岡輝公民館(同市北区旭本町)と操山公民館(同市中区国富)で支援品の寄付を受け付けるとのこと。
やみくもに無料で供出してほしいというのではなくて、米、缶詰、インスタント食品、調味料、菓子、粉ミルク、洗剤、おむつ、生理用品、マスクなどを募っているとのこと。それでいて、未開封・未使用で、食料品は期限が2022年2月以降のものとしている。 今回は当該の350世帯に無償提供する予定とのことで、新型コロナ禍の長期化で支援を求める家庭を支援しようとの熱意と努力に脱帽だ。
(続く)
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やみくもに無料で供出してほしいというのではなくて、米、缶詰、インスタント食品、調味料、菓子、粉ミルク、洗剤、おむつ、生理用品、マスクなどを募っているとのこと。それでいて、未開封・未使用で、食料品は期限が2022年2月以降のものとしている。 今回は当該の350世帯に無償提供する予定とのことで、新型コロナ禍の長期化で支援を求める家庭を支援しようとの熱意と努力に脱帽だ。
(続く)
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