224『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大原総一郎)
大原総一郎(1909~1968)は、この地方の随一クラスの富裕な家の生まれ。1939年(昭和14年)に倉敷絹織株式会社の社長に就任する。続く1941年(昭和16年)には、倉敷紡績株式会社の社長にも就任する。まだ若くして、新興財閥の主となった訳だ。
果たして、順風満帆であったのだろうか。それというのも、親譲りの地盤のうえにあぐらをかいていたのとは異なり、某か民主主義思想にも染まっていたようだ。なので、おりからの軍国主義(日本型ファシズム)の下では、馴染めず、鬱積していたようなのだ。
戦後の1947年(昭和22年)になっては、財閥解体という嵐が実業界をおそう。持株会社整理委員会が83の持株会社などを指定する中に、「大原合資」(9月26日に、他の地方財閥15社とともに指定を受ける)の名前も含まれていた。これにより、大原家の資産管理会社大原合資会社は解散となる。
当時、大原家は倉敷紡績(クラボウ)と倉敷絹織(クラレ)の二社の支配権を握っていたから、結局、倉敷紡績は持株会社に指定されて所有する株式は全部放出させられた。総一郎は責任をとって倉敷紡績の社長を辞任する。1948年(昭和23年)には、化学事業へと歩みつつある倉敷絹織の社長(再)となる。
そんな激動の実業界にあって、総一郎は、理論家をもって知られ、経営の多角化を行うことで会社も順調、関西財界の人としても名を馳せていく。その識見と手腕を見込まれて1947年(昭和22年)には、請われて物価庁の次長に就任するという多忙さであり、苦労が重なったようだ。
「インフレ昇進期の日本経済の収拾のため」とのことで呼ばれたらしいものの、当時は混乱期であって、相当に難しい立場であったに相違あるまい。それから、日経連常任理事日本ユネスコ国内委員などを務め、こちらの方が学者肌の彼に合っていたのではないか。
1949年(昭和24年) には、財閥解体での変更以来の社名「倉敷絹織株式会社」を「倉敷レイヨン株式会社」に変更する。同年 同社社長を降りるも、グループの経営に引き続きたづさわる。
戦前・戦中からの心機一転ということであったろうか、迎えた1950年(昭和25年)には、ポリビニルアルコール繊維としての商品名「ビニロン」を事業化するにいたる。これは、日本で初めての国産合成繊維として名前を馳せていく。
そんな中、1958年(昭和33年)に中国の訪問団が日本に来て、倉敷レーヨンのポバール・ビニロンプラントを見学した。その時、彼らはこれに並々ならぬ興味を示したらしい。
そもそもビニロンとは、衣料などを作る合成繊維の一種で、ポバールはそのビニロンの原料だという。倉敷レーヨンは、石灰石を原料にポバールを作り、そこからビニロンを生産する技術をもつ。戦後、二代目社長の総一郎が陣頭指揮で開発し、1950年(昭和25年)に世界で初めて工業化に成功していたのだ。
訪問団としては、そのビニロンプラントを中国に導入し、自国で量産して人々の「衣服不足の問題」解決に役立てたい。一方、総一郎は「鑑真和上」を尊敬していた。そして、「過去に日本人は戦争を通して中国に大きな被害をもたらした。そのことへのいくばくの償いになれば」との思いで、中国からの要請に応じることにする。
その後、1962年(昭和37年)に、中国と日本との間で「長期総合貿易に関する覚書」(通称・LT貿易)が調印される。そして迎えた1963年に、ようやくすべてのハードルが取り除かれ、中国技術貿易公司と西日本貿易株式会社、倉敷レーヨンの間で正式契約が結ばれる。この中国へのビニロンプラント輸出は、その後の日中貿易を具体的な形に実らせていく一歩となる。
その同じ1963年(昭和38年)には、商号商標としての「Kクラレ」を編みだし、1965年(昭和40年)には、人工の皮革(ひかく)としての「クラリーノ」の販売を始める
さても、実業家の中でもやや趣が変わったところでは、総一郎には、社会経済上のよって立つべき理論というものがあったようだ。その名を「フェビアン社会主義」という。
これをいうフェビアンたちは、イギリスにおいて力を持っていた。それは、マルクス主義と同じく資本主義社会における搾取の事実を認めている。しかし、国家を階級抑圧の機関とみる階級国家論をとることなく、国家の中立性を信じる。それというのも、イギリスでは、1885年までに労働者階級が参政権を獲得していたことから、いわゆる立憲的手段によって平和的に社会主義社会に到達できると考えた。
したがって、労働階級は国家機構、その最高機関たる議会の場を目一杯に利用して社会主義の物質的基礎をつくりだすことができるという。経済理論としては、フェビアンたちは、マルクスの影響をかなり受けるも、労働価値説を退ける。かといって、近代経済学のように、やがて価値概念そのものを放棄してしまう流れとも異なる、さりとてスミスやリカードなどの経済学までの話から抜け出しているとも言いがたい。
これを日本の社会にあてはめると、どうなるだろうか。総一郎の考えは、かなりユニークなもので、例えば、こういう。
「純自由経済的分配に対する社会政策的分配、社会政策的修正ではなく、所有権の社会化による社会主義的修正であるとも言い得る。」
では、そうであるなら、かかる「独立能力なき人々の生活費」を意識した
分配はどのようにしたらよいのだろうか。
「隣人愛と協同体の道徳とを有する文化国家たるべき国家に於ては、本質的に独立能力なき人々の生活費は、社会的余剰財源である利潤の中から優先して確保されるべきが当然である。」
また、その具体的な仕組みとしては、こうある。
「営利法人(生産、金融、商業等の総てを含む)に対して、一定規模以上、一定内容以上のものを選定してこれを対象法人とする。規模の基準は資本金、内容の基準は収益力、基準の決定、対象法人の決定は国会に於てなされる。専門委員会が之に当る。
右の法人株式のうち一定率(例えば30%)のものに配当されるべき利潤を救済目的のために直接利用し得るように、その相当株式の所有権の移転を行わしめる。その率並びに移転の方法は国会が決定する。
自発的移転が本質的に願わしいことは言を俟たぬ。受納側の主体は中央社会事業財団(仮称)、或は個々の社会事業団とする。その株式には優先的配当をなさしめる。その形態及率等に関する細目は国会が決定する。」(大原総一郎「資本並に分配の社会化への試案」、生田頼孝「戦後史の中の倉敷大原家ー戦後日本政治経済史からの批判的考察(上)」)
これにある、「自発的移転が本質的に願わしいことは言を俟たぬ」というのは、そのことはあくまでも理想であって、実際には、国会が大資本の所有権移転に動いても、その同じ所有権を盾に現場を支配している大資本家は同意しないかもしれない。
これには、彼は、次の通りの解決策を用意していて、ごく大まかには、こうある、
「労働者の所得は自由経済下に於ては労働組合の力によって獲得されることが主役である。」
しかして、次なる課題は、かかる政治的な舞台が整った上での技術論であつて、次のようなスキームを提案している。
「受納側の主体は中央社会事業財団(仮称)、或は個々の社会事業団とする。その株式には優先的配当をなさしめる。その形態及率等に関する細目は国会が決定する」というのであって、言うなればこれは、緻密で隣人愛に根ざした一人の社会主義者による、資本主義に代わる社会主義の主張だといえよう。
そのほか、大原には、文化の庇護者もしくは趣味人としてばかりではない、洋画・陶器・音楽などを楽しむ風があったようで、願わくば、「至誠天に通ず」ということであろうか、例えば、こんな文章を書いている。
(続く)
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