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基本的に読書感想文です。

ローマから日本が見える 3

2006-02-02 01:16:10 | Weblog
 ローマの人々は近隣に住むサビーニ族を祭りに招きました。
 当時のラテン人たちの間では「祭りの期間は戦争をしない」という掟があったので、サビーニ人も安心して一族全員で、新しくできた町の見物を兼ねて来ました。
 ところが祭りもたけなわになってきた時、突如ローマの男たちはサビーニの若い女性のみをねらって襲いかかり、拉致し、それ以外は市外に締め出しました。
 サビーニ人は武装してこなかったので、しかたなくいったん引き上げてからローマに抗議しました。
 それに対しロムルスは自ら拉致した女性の1人と結婚し、女性たちは全てローマ人の花嫁である、と宣言しました。非常に強引な嫁不足解消のための策略だったのです。
 しかしサビーニ側も、あー、そうですか、と言うわけにいきません。当然、両者は戦争になります。
 両者の激突は常にローマが優勢でしたが、都合4回にも及びました。
 ところが4回目の激突で戦闘が白熱するさなか、意外な仲裁者が現れました。
 連れ去られた女たちが戦いをやめて欲しいと訴え出たのです。
 彼女たちが言うには、自分たちはローマの男たちに良くしてもらっている、今では自分たちの夫だと思っている、だから夫と親兄弟が争うのを見ていられない、とのことです。
 サビーニ側は劣勢だったこともあり、ロムルスも丁度良い潮時とみて、両者とも女たちの仲裁を受けました。
 しかしロムルスは単に受けただけでなく、さらに一歩踏み込んだ提案をしました。それは、「両部族の合同」です。
 普通の和平なら、お互いの領域を決め、同盟を結ぶ程度ですが、ロムルスは一緒にローマに住もう、と提案したのです。
 終始優勢だったローマに厳しい要求を突きつけられるのでは、と恐れていたサビーニ人は喜んでその提案を呑みました。
 それは初めてローマが拡張した瞬間でもありました。
 このエピソードで注目すべきは、拉致した女性をも慕わせる、という現代につながるイタリア人男性の女扱いの上手さ、ではなく、敗者をも同化させる、融和の精神です。
 これは別に、彼らが特別できた人間だったわけではなく、人口不足を補うために必要にせまられてされた措置ですが、このやり方が後にローマのDNAとでも呼ぶべきものになります。
 そしてこの融和の精神こそがローマが様々な文化や民族を吸収して、大帝国になってゆく、最大の原動力でした。

 こんな感じでスタートした、ロムルスとその仲間たちの町(ポリス)、ローマですが、その政治形態は、ロムルスを頂点とする王政でした。
 しかし王様は独裁者ではありません。王様は市民全員が参加する、市民集会の投票によってえらばれます。ロムルスも最初は人望によってリーダーをしていましたが、この制度がきまってから、選挙で王に選びなおされています。
 また市民集会は立法の権利はないものの、王様が提案する法案に拒否と承認の権利を持っていました。
 そして王に対する助言機関として、市民のなかの有力者で構成する、元老院もありました。
 共和制の時代にはローマそのものになる元老院ですが、このときはまだ権力はなく権威のみの存在でした。それでもある程度王の暴走にブレーキをかける役目がありました。
 このような「三権分立」でローマの政治は始まりました。
 
 
 
 


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